正平一統

   京から直義派を排除したものの、直義は関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を伸ばしていた。

   尊氏は直義と南朝の分断を図るため、佐々木道誉らの進言を受けて今度は南朝からの直義・直冬追討の綸旨を要請するため、南朝に和議を提案した。

   南朝方は、北朝方にある三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件とした。明らかに北朝に不利な条件だったが、観応2年(1351年)10月24日尊氏は条件を容れて南朝に降伏し綸旨を得た。

   この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月7日北朝の崇光天皇皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭された。

   また元号も北朝の観応2年が廃されて南朝の正平6年に統一された。これを正平一統(しょうへいいっとう)と呼ぶ。

   12月23日には南朝方が神器を回収した。実質的にこれは北朝方の南朝側への無条件降伏となった。

   尊氏は義詮に具体的な交渉を任せたが、南朝方は、北朝方によって任じられた天台座主始め寺社の要職を更迭して南朝方の者を据えることや、建武の新政において公家や寺社に与えるため没収された地頭職を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求め、北朝方と対立する。

   義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。

   薩埵峠の戦い

   一方尊氏は直義追討のために出陣、12月の薩埵峠の戦いや相模国早川尻の戦いなどで直義方を破り、翌正平7年(観応3年、1352年)1月には鎌倉に追い込んで降伏させた。

   直義の死と擾乱の決着

   その後浄妙寺 (鎌倉市)境内の延福寺に幽閉された直義は2月26日(西暦3月12日)に急死した。公には病没とされたが、この日は高師直の1周忌にあたり、『太平記』の物語でも尊氏による毒殺であると描かれていることから、毒殺説を支持する研究者としない研究者に分かれる。

   一般に、直義の死をもって擾乱の決着とする。

   擾乱後の動乱

   正平一統の破談

   足利一族内の擾乱は一応の決着を迎えたものの、南朝は正平一統の和議を受けて増長する。

   かつての後醍醐天皇の側近であり、この当時南朝の頭脳・調停者として事実上の指導者であった北畠親房を中心に、南朝は京都と鎌倉から北朝と足利勢力の一掃を画策した。

   まず閏2月6日に南朝は尊氏の征夷大将軍を解き、これに替えて宗良親王を任じる。すると新田義興脇屋義治北条時行らが宗良親王を奉じて挙兵し鎌倉に進軍した。鎌倉の尊氏は一旦武蔵国まで引いたため、同18日には南朝方が一時的に鎌倉を奪回した。

   しかし尊氏は武蔵国の各地緒戦で勝利し、3月までに新田義宗は越後、宗良親王は信濃に落ち延び、鎌倉は再び尊氏が占領した(武蔵野合戦)。

   一方閏2月19日には北畠親房の指揮下、楠木正儀・千種顕経北畠顕能山名時氏を始めとする南朝方が京都に進軍、七条大宮付近で義詮・細川顕氏らの軍勢と戦い、翌日には義詮を近江に駆逐して入京した。

   24日には准后宣下を蒙った北畠親房が17年ぶりに京都に帰還、続いて北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と皇太子直仁親王を南朝方本拠の賀名生へ移した。後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)、さらに山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)へと移して京をうかがった。

   義詮は、近江の佐々木道誉、四国の細川顕氏、美濃の土岐頼康、播磨の赤松氏らに加え、足利直義派だった山名時氏や斯波高経らの与力も得て布陣を整え、3月15日には京へ押し返してこれを奪還、さらに21日には男山八幡に後村上天皇を包囲し兵糧攻めにした。

   この包囲戦は2か月にもおよぶ長期戦となり、飢えに苦しんだ南朝方は5月11日に後村上天皇が側近を伴い脱出、男山八幡は陥落した(八幡の戦い)。

   こうした事態を受けて尊氏と義詮は相次いで3月までに観応の元号復活を宣言、ここに正平一統はわずか4か月あまりで瓦解した。

   北朝の再擁立

   尊氏が南朝に降った時に南朝が要求した条件に、皇位は南朝に任せるという項目があったため、北朝の皇位の正統性は弱められる結果となった。

   京都は奪回したものの、治天の君だった光厳上皇、天皇を退位した直後の崇光上皇、皇太子直仁親王は依然として南朝にあり、さらに後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収されたため、北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態に陥った。

   また武家にとっても尊氏が征夷大将軍を解任されたため、政権自体が法的根拠を失ってしまう状況になった。

   最終的な政治裁可を下しうる治天・天皇の不在がこのまま続けば、京都の諸勢力(公家・武家・守護)らの政治執行がすべて遅滞することになる。幕府と北朝は深刻な政治的危機に直面することになったのである。

   事態を憂慮した道誉、元関白の二条良基らは勧修寺経顕や尊氏と相計って、光厳・光明の生母広義門院に治天の君となることを要請し、困難な折衝の上ようやく受諾を取り付けた。

   広義門院が伝国詔宣を行うこととなり、崇光上皇の弟・弥仁が8月20日践祚、後光厳天皇として即位した。

   9月27日、北朝は正平統一はなされなかったとして従来の観応からの改元を行い、文和元年とした。