この一連の政変を通じてその立場が判然としないのが、師直と直義の間にあって終始揺れ動いた尊氏である。

   その動静をめぐっては、局外中立を貫いていたとする説、優柔不断で日和見をしていたとする説、そもそも尊氏は直義方を排除するために師直と示し合わせていたとする説など、さまざまな解釈がある。

   いずれにしてもこの一件は、それまでは曲がりなりにも協調路線を取っていた尊氏と直義がついにその袂を分かつ発端となった。

   同年12月に義詮が入京。

   12月8日、直義は出家して恵源と号した。ところが早くもその月の内に上杉重能と畠山直宗が配流先で師直配下の者に暗殺されるという事件が出来する。ここに師直と直義の間の緊張は再び高まった。

   足利直冬の台頭

   この年の4月に長門探題に任命されて備後に滞在していた直冬は、事件を知って義父の直義に味方するために中国地方の兵を集めて上洛しようとしたが、尊氏は師直に討伐令を出したため九州に敗走し(9月)、今度は九州で地盤を固め始めた。

   尊氏方は出家と上洛を命じるが従わなかったため、再度討伐令を出した。直冬は拡大させた勢力を背景に大宰府少弐頼尚と組み、南朝方とも協調路線をとって対抗した。

   翌正平5年/貞和6年(1350年)、北朝は「貞和」から「観応」に改元。この頃各地で南朝方の武家が直冬を立てて挙兵する。

   10月28日、西で拡大する直冬の勢力が容易ならざるものと見た尊氏は自ら追討のために出陣、備前まで進んだ。

   経過

   直義の京都出奔と擾乱の勃発

   ところが、直冬討伐へ尊氏が出陣する直前の10月26日夜に、直義は京都を出奔していた。

   一般に、この事件をもって観応の擾乱の開始とする。

   直義は大和に入り、11月20日に畠山国清に迎えられて河内石川城に入城、師直・師泰兄弟討伐を呼びかけ国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏、吉良貞氏、山名時氏、斯波高経らを味方に付けて決起した。こうして、戦乱が本格的に始まった。

   関東では12月に関東執事を務めていた上杉憲顕と高師冬の2名が争い、憲顕が師冬を駆逐して執事職を独占する。

   直義方のこうした動きに直冬討伐どころではなくなり、尊氏は同月に備後から軍を返し、高兄弟も加わる。北朝の光厳上皇による直義追討令が出されると、12月に直義は一転してそれまで敵対していた南朝方に降り、対抗姿勢を見せた。

   高一族の滅 亡

   正平6年/観応2年(1351年)1月、直義軍は京都に進撃。留守を預かる足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びた。

   2月、尊氏軍は京都を目指すが、播磨光明寺城での光明寺合戦及び2月17日摂津打出浜の戦いで直義軍に相次いで敗北する。南朝方を含む直義の優勢を前に、尊氏は寵童饗庭氏直を代理人に立てて直義との和議を図った。

   この交渉において尊氏は表向きは師直の出家(助命)を条件として挙げていた。しかしながら実際には氏直には直義に"師直の殺害を許可する"旨を伝えるようにという密命を伝えていた。

   2月20日、和議は成立するも、果して2月26日、高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義派の上杉能憲(憲顕の息子、師直に殺害された上杉重能の養子で、仇討ちという形になる)の軍勢により、摂津武庫川(兵庫県伊丹市)で一族と共に謀殺(殺害)される。

   長年の政敵を排した直義は義詮の補佐として政務に復帰、九州の直冬は九州探題に任じられた。

   直義と尊氏の対立

   高兄弟を失っていったんは平穏が戻ったものの、政権内部では直義派と反直義派との対立構造は存在したままで、それぞれの武将が独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていった。

   高一族滅亡から半年も立たないうちに、尊氏は直義派の一掃を図るため、戦果の恩賞や処罰を自派に有利に進め、またの武将の処罰や自派の武将への恩賞を優先した。

   謁見に訪れた直義派の細川顕氏を太刀で脅して強引に自派へ取り込むなど直義派の懐柔も図った。

   一方戦役の武功に準じた報酬や裁定を挙げられない直義の政治は武士たちに受け入れられず、これも直義派から武将が離反する原因となるなど、徐々に形勢は尊氏方に移っていった。

   南朝へ帰順を示した直義は、北朝との和議を交渉したが不調に終わる。調停を担った南朝方の楠木正儀は、このときの固陋な南朝方の態度に怒りを覚え、今南方を攻めるなら自分はそれに呼応するとまで口走ったとされている。

   3月30日直義派の事務方の武将である斎藤利泰が何者か(刺客)に暗殺(殺害)され、5月4日には直義派の最強硬派である桃井直常が襲撃され辛くも危機を脱するという事件が発生した。

   尊氏は、近江佐々木道誉と播磨の赤松則祐らが南朝と通じて尊氏から離反したことにして、7月28日に尊氏は近江へ、義詮は播磨へそれぞれ出兵することで東西から直義を挟撃する体制を整えた。

   8月1日、事態を悟った直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、自派の地盤である北陸信濃を経て鎌倉へ逃亡した。

   この陰謀については道誉が首謀者であるとの説がある。このとき直義は光厳上皇には比叡山に逃れるよう勧めているが、受け入れられなかった。