いずれにしても、その結果として応永年号は35年と、明治以前では最も長い元号となった。

   義満は明との正式な通交を望んでいた。しかし1374年応安7年)の遣使では、明側は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下との通交は認めない方針のため、幕府の交渉は実らなかった。

   1380年康暦2年)にも「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと試みるが、これも天皇の家臣との交渉は受けないとの理由と、宛先を丞相にしたという理由で入貢を拒まれている。

   そこで義満は応永元年12月(1394年)に太政大臣を辞し、出家した。これにより義満は天皇の臣下ではない自由な立場となった。

   1401年応永8年)、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人肥富(こいとみ、こいつみ・こいずみとも)と僧祖阿を使節として明に派遣する。懐良親王の勢力はすでに没落しており、建文帝は義満を日本国王に冊封した。

   同時に明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易1404年(応永11年)から始まり、また明に要請されて倭寇を鎮圧している(なお、返礼の使者を送るまでに靖難の変が起き、建文帝から永楽帝に皇帝が変わっていた)。

   遣唐使の廃止以来、独自の政策を採っていた公家社会では、明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。

   1397年(応永4年)には西園寺家から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘(「北山第」(きたやまてい)または「北山殿」(きたやまどの)、後の鹿苑寺)を造営した。

   1399年(応永6年)春以降、義満は本格的にこの山荘に移り住み、活動の拠点としていく。

   この時代の文化を、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した北山文化と呼ぶことも多い。また北山文化の芸能である猿楽では、義満は観阿弥世阿弥父子を庇護した。

   また、足利義満が建設を進めた特筆すべき建築物として、1399年に京都相国寺に完成した八角七重塔がある。

   塔の高さは、360尺(約109m)に及ぶ高層建築物であり、以後500年以上、日本最高記録となっていた。相国寺の七重塔は、4年後に落雷により焼失したが、翌年の1404年には同等規模の北山大塔を金閣寺付近に建設したという。

   義満の最期

   義満は応永11年(1404年)末頃から「太上天皇」の尊号が贈られないかと朝廷に対して働きかけを行っていた。

   応永13年(1406年)、後小松天皇の生母三条厳子が没すると、「天皇在位中に二度の諒闇は不吉」であるとして、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母とし、義満は天皇の義父と言える存在となった。

   この際、義満は関白一条経嗣から、義満への「尊号」が検討されるのではないかという話を聞き、上機嫌な姿を見せたという。

   しかし康子は翌年「北山院」の女院号を贈られたものの、義満に太上天皇の尊号が贈られることはなかった。

   ただし、義満には出御した際に「三衣筥」が置かれる例など、これまで上皇・法皇にしか認められなかった先例が数多く義満に適用されている。

   応永15年(1408年)4月25日には出家予定であった子の義嗣を親王の例で元服させ、参議にまで昇進させた。しかしその2日後の4月27日、義満は病に倒れた。

   4月28日には見舞の人にも対面しなかった。

   4月29日、医師の坂士仏の治療により快方に向かったが、5月1日には悪化した。

   このため、将軍の義持は山科教冬を遣いに送り、諸寺に義満快癒の祈祷を命じた。その他にも管領などにより義満快癒の様々な催しが行なわれている。しかし5月4日に危篤となり、昼頃には一旦事切れたかに見えたが夕方になって蘇生した。5月5日は平静を保ったが、5月6日の申刻過ぎから酉刻近くに遂に死去した。享年51(満49歳没)。

   法名は鹿苑院天山道義。等持院で火葬された義満の遺骨は、相国寺塔頭鹿苑院に葬られた。以後相国寺は足利将軍の位牌を祀る牌所になったが、天明の大火で灰燼に帰して衰微した。

   鹿苑院に至っては明治になってから廃仏毀釈のあおりで廃寺の憂き目に遭う。そのため義満の墓所はその正確な位置が不明となってしまったが、位牌は足利家と縁の深かった臨川寺に移され安置されている。

   死後

   義満死去2日後、朝廷から「太上天皇」の尊号を贈られたが、義持や管領斯波義将らは「先例なし」として辞退し、宣下自体なかったこととされた[33]。これは朝廷と幕府の間で事前の合意があったものと見られている。

   一方で、五山の禅僧などは大檀那であった義満の権威を高めるため、「鹿苑院太上天皇」や「鹿苑天皇」などの号をしばしば用いたが、広く通用したものではない。

   また明の永楽帝は弔問使を日本につかわし「恭献」という諡を送っている。この関係は義満の跡を継いだ足利義持が1411年に明の使者を追い返すまで続いていた。

   義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。