また、義満は1378年(天授4年/永和4年)3月に右近衛大将に任ぜられ(征夷大将軍と近衛大将兼務は惟康親王以来)、5か月後には権大納言を兼務して以後、朝廷の長老である二条良基の支援を受けながら、公家社会の一員として積極的に参加する姿勢を見せる。

   翌年8月14日、十市遠康ら南朝方武家に奪われた寺社領の返還を求める興福寺大衆春日大社神木を奉じて洛中に強訴に及んだ(康暦の強訴)。

   摂関家以下藤原氏系の公卿は神木の神威を恐れて出仕を自重して宮中行事が停滞する中、義満は自分が源氏であることを理由に出仕を続け、1380年(天授6年/康暦2年)には一時中断していた御遊始作文始歌会始などを立て続けに大々的に再興して反対に大衆を威圧した。

   このため、同年12月15日に大衆と神木は幕府の十市討伐の約束以外に具体的な成果を得ることなく奈良に戻り、歴史上初めて神木入洛による強訴を失敗に終わらせて寺社勢力に大打撃を与えた。

   もっとも、年が明けると幕府は興福寺に使者を派遣してこれまでになかった直接対話を行って興福寺側の要望を訊き、延暦寺に対しても幕府との直接交渉ができる山門使節の設置を認め、所領興行や仏事再興にも取り組むなどの硬軟両様の使い分けを行っており、後に義満が1385年(元中2年/至徳2年)に南都参詣(前述)に行った際には南都の僧侶たちはこれをこぞって歓迎し、1394年応永元年)に延暦寺ゆかりの日吉社参詣を行った際にも延暦寺から参詣費用の献上が行われて義満も御礼に堂舎を寄進している。

   義満は祖父・尊氏や父を越える内大臣、左大臣に就任し官位の昇進を続けた。1383年弘和3年/永徳3年)には武家として初めて源氏長者となり淳和奨学両院別当を兼任、准三后の宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。

   摂関家の人々にも偏諱を与えるようになるなどその勢威はますます盛んになり、掣肘できるものは皆無に等しかった。

   また、これまで院や天皇の意思を伝えていた伝奏から命令を出させ、公武の一体化を推し進めた。

   これら異例の措置も三条公忠が「先例を超越した存在」と評したように、公家側も受け入れざるを得ず、家礼となる公家や常磐井宮満仁王のように愛妾を差し出す者も現れた。

   1392年元中9年/明徳3年)には楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、南朝勢力が全国的に衰微したため義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、持明院統大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器北朝後小松天皇に接収させて南朝が解消される形での南北朝合一を実現し58年にわたる朝廷の分裂を終結させる(明徳の和約)。

   義満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇1393年(明徳4年)に死去し、自己の権力を確固たるものにした義満は1394年応永元年)には将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居したが、政治上の実権は握り続けた。同年、従一位太政大臣にまで昇進する。

   武家が太政大臣に任官されたのは、平清盛に次いで2人目である。そして征夷大将軍を経験した武家が太政大臣に任官されたのは初めてであり、かつ後の時代を含めても義満が足利家唯一の太政大臣となった。

   翌年には出家して道義と号した。義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家の頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。

   義満の出家に際して、斯波義将をはじめ多くの武家や公家、皇族常盤井宮滿仁親王まで追従して出家している。

   1395年応永2年)には九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免する。

   1399年(応永6年)には西国の有力大名・大内義弘を挑発し義弘がで挙兵したのを機に討伐し(応永の乱)、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。

   勘合貿易と北山文化

   義満は若年の頃からへの憧憬を深く抱いていた。その例としては、1394年(明徳5年)に行われた改元の議の際の出来事があげられる。

   義満は明の太祖・洪武帝の治世にあやかって日本の元号にも「洪」の字を使うよう工作した。

   しかし、洪の字は洪水につながり、また不吉であるとして公家達が反発したため実現せず、応永の元号が用いられることとなった。

   機嫌を損ねた義満は、自分の生きている間には元号を変えさせなかった。ただし、これについては異説もあり、1408年(応永15年:義満死去に伴う)と1413年(応永20年:称光天皇即位に伴う)に出された改元の議を阻止し、自分が生きている間には元号を変えさえなかったのは息子の義持であるとする指摘もある。

   また、義満の改元への影響力は強かったものの、その立場自体は同時代の太政官に列する公卿の範疇でしかなく(「洪徳」不採用もその反映とする)、その発言力も戦国期の将軍(義稙義晴)よりは低かったとする指摘もある。