なお、同年3月5日には弟の基氏が義詮に先立って死去している。

   死の間際、天龍寺春屋妙葩等持寺黙庵が盥漱などの心身を清める仏事を行い、義詮を看取った(義堂周信『空華老師日用工夫集』)。

   遺骨は神奈川県鎌倉市浄妙寺光明院に納められ、神奈川県鎌倉市瑞泉寺および神奈川県鎌倉市円覚寺黄梅院も分骨を許可された(『空華老師日用工夫集』)。

   その他の寺は義詮の遺命にないとして分骨を許可されなかった(『空華老師日用工夫集』)。

   なお、京都府京都市右京区嵯峨野宝筐院および善入山宝筐院および静岡県三島市の宝鏡院にも墓標が存在するが、史実としては不明。

   通称と邸宅

   三条坊門に邸宅を営んだため「坊門殿」と呼ばれた。また、室町季顕から「花亭」を買い受け別邸とした。

   のちに「花亭」は足利家より崇光上皇に献上され仙洞御所となったが、第3代将軍義満は再び皇室から「花亭」を譲り受け御所とした、世にいう花の御所である。

    

   6「有力大名山名氏の内紛」

Ø  山名師義は天授2年/永和2年(1376)に死去し、4人の息子義幸氏之義熙、満幸は若年であったため、中継ぎとして末弟の時義が惣領となった。

Ø  これに対して、氏清とその婿の満幸が不満を示す。元中6年/康応元年に時義が死去、惣領と但馬・備後は時義の息子時熙が、伯耆は時義の養子になっていた時熙の義兄弟の氏之に与えられた。

Ø  しかし、病弱だった義幸の代官として幕府に出仕していた満幸は自分が無視されたとしてこの件でも不満を増大させていった(義幸は永徳元年/弘和元年(1381)に病を理由に丹後・出雲・隠岐守護を辞任、満幸が3か国を継承した)。

Ø  また、家臣団も時氏以前からの東国出身の譜代家臣、師義が佐々木氏(京極氏)に追われた後も彼に随従したことから重用された出雲出身の家臣、支配地域で新たに登用された家臣に分かれて争うようになり、それが主家一族の内紛に拍車をかけた。

Ø  明徳元年/元中7年3月、義満は時義が生前将軍に対して不遜であり、時熙と氏之にも不遜な態度が目立つとして、氏清と満幸に討伐を命じた。

Ø  時熙と氏之は挙兵して戦うが、氏清が時熙の本拠但馬、満幸が氏之の本拠伯耆を攻め、翌元中8年/明徳2年(1391年)に2人は敗れて没落した。戦功として氏清には但馬と山城、満幸には伯耆の守護職が新たに与えられた。備後も満幸の兄義熙が継承したが、同年に細川頼之に交替させられた。

   山名氏との対決

   義満の挑発

   山名氏を分裂させて時熙と氏之を追放したが、氏清と満幸の勢力が強まってしまった。義満は、今度は氏清と満幸に対して巧妙な挑発を行っていく。

 

   足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 – 1394年)である。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室紀良子

   朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。

   義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。

   正平13年/延文3年(1358年)8月22日、京都春日東洞院にある幕府政所執事の伊勢貞継入道照禅の屋敷で生まれる。

   祖父である尊氏の死からちょうど100日目のことである。幼児期は伊勢邸で養育された。

   義満は長男ではなかったが、義詮と正室渋川幸子との間に生まれていた千寿王は夭折してその後幸子との間に子は無く、義満誕生の前年にも義詮と紀良子の間には男子(名前不明)が生まれていたが、義満は嫡男として扱われた。

   義満が幼少のころの幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の擾乱以来、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。