5「義満・有力大名の弱体化の画策」
これに加えて、義満は勢力が強すぎて統制が困難な有力守護大名の弱体化を図る。元中4年/嘉慶元年(1387年)、幕府創業の功臣であり、美濃、尾張、伊勢3か国の守護である土岐頼康が死去した。
甥の康行が後を継いだが、義満は土岐氏一族が分裂するように仕向けて挑発して康行を挙兵に追い込み、康応元年/元中6年(1389年)に義満は康行討伐の命を下して、翌明徳元年/元中7年(1390年)にこれを下した(土岐康行の乱)。康行は領国を全て取り上げられ、康行の弟満貞が尾張を領有、土岐氏の惣領は叔父の頼忠に移ったが、美濃一国の領有しか許されなかった。
義満の次の狙いは11か国を領する山名氏であった。
足利 義詮(あしかが よしあきら)は、室町時代(南北朝時代)の室町幕府の第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男。
幼少時から将軍就任まで
元弘3年(1333年)、伯耆国船上山にて挙兵した後醍醐上皇討伐のために父・高氏(尊氏)が鎌倉幕府軍の総大将として上洛した際、母・登子とともに北条家の人質として鎌倉へ留め置かれた。
高氏が丹波国で幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻略すると、幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加した。
この際千寿王は、父の名代として、家臣らの補佐により、鎌倉攻め参加の武士に対し軍忠状を発付し、後に足利氏が武家の棟梁として認知される端緒を作る。これが新田義貞と足利高氏の関係が悪化する元となる。
建武の新政では、叔父の直義に支えられて鎌倉に置かれ、尊氏が建武政権から離反すると、父とともに南朝と戦い、主に鎌倉において関東を統治した。
尊氏による幕府開府後、足利家の執事である高師直と尊氏の弟の足利直義の対立が激化して観応の擾乱が起こり、師直のクーデタにより直義が失脚すると、義詮は京都へ呼び戻され直義に代わり幕府の政務を任される。
正平6年(1351年)8月には、尊氏が直義派に対抗するために義詮と共に南朝に降伏し、11月に年号を南朝の「正平」に統一する正平一統が行われる。
翌年に南朝方の北畠親房や楠木正儀らが京都へ侵攻すると、義詮は京を逃れて近江国へ避難した結果、光厳、光明、崇光天皇の三上皇及び皇太子の直仁親王を奪われたが、観応の年号を復活させるとともに兵を募って京都を奪還し、三種の神器の無い状態で新たに後光厳天皇の即位を実現させる。
また、正平8年(1353年)6月、正平10年(1355年)1月にも異母兄の直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われている。
将軍就任後
正平13年(1358年)4月に尊氏が没し、12月に義詮は征夷大将軍に任命される。
この頃には中国地方の山名氏や大内氏などが向背定まらず、九州では懐良親王などの南朝勢力は健在であった。
早速、河内や紀伊に出兵して南朝軍と交戦し赤坂城などを落とすが、一方幕府内では、正平16年(1361年)に細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降るなど権力抗争が絶えず、その隙を突いて南朝方が一時京都を奪還するなど政権は流動的であった。
しかし細川清氏や畠山国清が滅ぼされ、正平17年(1362年)7月、清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任命。
正平18年(1363年)には大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめ、仁木義長や桃井直常、石塔頼房も幕府に帰参し、南朝との講和も進んでいた。
同年、義詮の執奏により、勅撰和歌集の19番目にあたる『新拾遺和歌集』は後光厳天皇より綸旨が下った。
正平20年(1365年)2月には三条坊門万里小路の新邸に移っている。この間に義詮は訴訟制度の整備に着手し、評定衆・引付衆を縮小して将軍の親裁権の拡大を図った(御前沙汰)。
園城寺と南禅寺の争いでは、今川貞世に命じて園城寺が管理する逢坂関等を破却させた。
正平21年(1366年)に斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命した(貞治の変)。
正平22年(1367年)11月、側室の紀良子との間に生まれた幼少の嫡男・義満を細川頼之に託し、12月7日に病により死去した[1]。享年38。