翌 正平5年/観応元年(1350年)、尊氏・師直らが直義の養子直冬を討つために中国地方へ遠征すると、その留守に乗じて京都を脱出、師直討伐を掲げて南朝へ降る。

   しかし直義は、南朝に降ったのちも発給文書には北朝で用いられた観応の年号を使用しており、降伏は便宜的なものであったと解釈されている。

   一方、京都の北朝は直義追討令を出すに至る。南朝に属した直義は尊氏勢を圧倒し、正平6年/観応2年(1351年)に播磨国光明寺城光明寺合戦)や摂津国打出浜(兵庫県芦屋市)で尊氏方を破る(打出浜の戦い)。

   尊氏方の高師直師泰兄弟とその一族は2月26日、直義派の上杉能憲に殺害された。

   師直兄弟を闇討ちで排除した後は、尊氏の嫡子義詮の補佐として政務に復帰したが、尊氏・義詮父子との仲は良くならず、ついに尊氏父子は出陣と称して京都から出ていきそれぞれ近江と播磨で反直義勢の態勢を整え始めた。

   それを見た直義は8月1日に京都を脱して北陸信濃を経、鎌倉を拠点に反尊氏勢力を糾合した。

   これに対して尊氏父子は南朝に降り、正平一統が成立して新たに南朝から直義追討令を出してもらう。

   しかし、駿河国薩埵山(「埵」は「土へん」に「垂」、静岡県静岡市清水区)、相模国早川尻(神奈川県小田原市)などの戦いで尊氏に連破され、正平7年(1352年1月5日、鎌倉にて武装解除される。浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、同年2月26日に急死した。

   『太平記』巻第三十では「俄に黄疸と云ふ病に犯され、はかなく成らせ給ひけりと、外には披露ありけれ共、実には鴆毒の故に、逝去し給ひけるとぞささやきける」と、毒殺の噂が流れたことを記述している。

   研究者の中には毒殺説を支持するものも多いが、峰岸純夫亀田俊和は自然死であると見ている。

    直義が没した日は奇しくも、自身の宿敵であった高師直師泰兄弟の一周忌に当たり、早世した実子・如意丸(如意王)の一周忌の翌日でもあった。享年47。

   観応の擾乱は直義の死により終わりを告げた。

   ただし、直義派の武士による抵抗は、その後直冬を盟主として1364年頃まで続くことになった。

   なお、尊氏はその死の直前の正平13年/延文3年(1358年)に、直義を従二位に叙するよう後光厳天皇に願い出ている。その後、年月日は不詳であるが更に正二位を追贈された。

   正平17年/康安2年(1362年)7月22日には「大倉宮」の神号が贈られ、「大倉二位明神」として直義の邸宅であった三条坊門殿の跡地に三条坊門八幡宮(現・御所八幡宮社)を創建して祀った他、直義が失脚後に滞在していた綾小路邸にも祀った。

   さらに天龍寺の付近に直義を祀る仁祠(寺)が建てられている。

   人物

   観応の擾乱で天下を巻き込んで争った尊氏と直義だが、1歳違いの同母兄弟ということもあって元来仲はすこぶる良かった。

   幕府滅亡後の鎌倉を預かっていた直義が中先代の乱で敗走したときには、尊氏は後醍醐天皇勅許を得ぬまま軍勢を催して東国に下り、直義を救援した。

   直義は、乱の平定後帰京しようとする尊氏を説き鎌倉に留まらせた。

   これを警戒する反尊氏派の運動によって追討令が出ると、尊氏は後醍醐の恩を思い出家して恭順の意を示そうとするが、直義らは尊氏の罪を一切許さないとする偽の綸旨まで示して翻意させようとした。

   さらに軍勢を率いて西上した直義らが敗北すると、これを救うべく尊氏もついに官軍に立ち向かうことになった。

   このように建武政権に対抗し、積極的に武家政権の再興を推し進めたのは直義以下の武士たちで、弟想いの尊氏は板挟みの末に後醍醐に反旗を翻す決断に至ったといえる。

   京都を手中に収めた足利方の推す光明天皇が践祚してわずか2日後、尊氏が石清水八幡宮に奉納した願文には「尊氏に道心給ばせ給候て、後生助けさせおはしまし候べく候。猶々、とく遁世したく候。道心給ばせ給候べく候。今生の果報に代へて、後生助けさせ候べく候」とある。持明院統の天皇・上皇を擁して逆賊の名を一応逃れたとはいえ、後醍醐を逐ったことは尊氏を沈鬱にし、出家遁世の志を起こさせた。

   これに続けて「今生の果報をば、直義に給ばせ給ひて、直義安穏に守らせ給候べく候」と、弟想いの心情が現れるとともに、新たな政治の現実は直義が担っていくものという意識も滲ませている。

   降伏した後醍醐から光明に三種の神器が引き渡され、武家政権(室町幕府)が開始するにあたり、その基本方針を示す建武式目が制定されたが、その内容は直義の意思を反映したものだと言われる。

   1338年、尊氏が征夷大将軍に就くと、直義は左兵衛督に任ぜられ、「征夷将軍と武衛将軍、兄弟両将軍」と称せられた(「武衛将軍」は兵衛督の唐名)。副将軍とも言われる。

   直義は足利一門の渋川貞頼の娘を正室とした他に側室を迎えなかった。二人の間には長く子が生まれず、尊氏の庶子直冬を養子にしたが、夫婦ともに40歳を過ぎてから思いがけず男子(如意丸(如意王))が誕生した。

   このことが直義に野心を芽生えさせたと『太平記』は描いている。

   尊氏が激しい感情の起伏がある人物とされるのに対し、直義は冷静沈着であったとされる。

   尊氏が山のように贈られてきた品物を部下たちにすべて分け与えたほど無欲だったという逸話は有名であるが、直義はそもそもそういう贈り物を受け取ること自体を嫌った、と言われている(『太平記』)。

   『太平記』の祖形となった史書の誤りを訂正させた話なども伝えられる。

   禅僧の夢窓疎石に帰依していた。

   数々の武功を立てた土岐頼遠が光厳上皇に狼藉を働いて捕らえられた際、頼遠の軍才や数々の武功を惜しんで助命を嘆願する声が上がり続けても、朝廷の権威を重んじる直義は断固として耳を貸さずに頼遠を斬首した。

   光厳上皇の権威を軽視ないし否定することは、上皇から征夷大将軍を与えられた尊氏と、そして室町幕府の権威をも否定することになりかねず、情に流されない冷徹な判断によるものであった。