論功行賞では尊氏派の武将の優先を直義に約束させ、高氏を滅ぼした上杉能憲の死罪を主張し、直義との交渉の末これを流罪にした。

   また、謁見に現れた直義派の細川顕氏を降参人扱いし、太刀を抜いて縅すなどまるで勝者のように振る舞い、勝ち戦で上機嫌だった顕氏は尊氏の不思議な迫力に気圧され一転して恐怖に震えたという。

   そもそも尊氏は細かいことに拘らない性格だったが、今回の敗戦も尊氏と直義の戦いではなく、あくまで師直と直義の戦いだと、自分の都合のいいように考えていたようだ。

   更に、直義の北条泰時を理想とする守旧的な政治は、幾度の戦乱を経て現実に即しているとは言い難かったため、尊氏派に宗旨替えする武将が続出し、敗者だった尊氏側が実際には優勢であるという情勢ができてゆく。

   このような情勢の中で、直義派の武将が殺害されたり襲撃されたりするなど事件が洛中で続発し、終には直義は政務から再び引退するに至る。

   尊氏は佐々木道誉の謀反を名目に近江へ、義詮は赤松則祐の謀反を名目として播磨へ、京の東西へ出陣する形となったが、佐々木や赤松の謀反の真相は不明で(後に彼らは尊氏に帰順)、実際には尊氏はむしろ直義追討を企てて南朝と和睦交渉を行った。

   この動きに対して直義は京を放棄して北陸を経由して鎌倉へ逃亡した。尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立し、これを正平一統という。

   この和睦によって尊氏は南朝から直義追討の綸旨を得たが、尊氏自身がかつて擁立した北朝の崇光天皇は廃されることになった。

   そして尊氏は直義を追って東海道を進み、薩た峠の戦い (南北朝時代)静岡県静岡市清水区)、相模早川尻(神奈川県小田原市)の戦いなどで撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。

   直義は、正平7年/観応3年(1352年)2月、高師直の一周忌に急死した。『太平記』の物語では、尊氏による毒殺の疑いを匂わせるように描かれた。尊氏は直義の死後病気がちになり、以後政務は義詮を中心に執られることになった。

 

 

   4「将軍権力の強化」

   室町幕府の将軍は守護大名の連合の上に成り立っており、その権力は弱体なものであった。正平24年/応安2年(1369年)に3代将軍に就任した足利義満は将軍権力の強化を図った。

   天授5年/康暦元年(1379年)、康暦の政変により幕府の実権を握っていた管領細川頼之が失脚、斯波義将が管領に就任する。義満は細川氏斯波氏の対立を利用して権力を掌握。直轄軍である奉公衆を増強するなどして着実に将軍の権力を強化した。

 

   康暦の政変(こうりゃくのせいへん)は、南北朝時代天授5年/康暦元年(1379年)に室町幕府管領細川頼之が失脚した政変である。

   室町幕府2代将軍足利義詮の頃には守護同士が対立し、執事細川清氏などは失脚した後に南朝に属して京都を奪還するなど幕政は不安定な状態にあった。

   清氏失脚後には斯波高経義将父子が政権を持つが、佐々木道誉との対立などから貞治の変で失脚する。

   義詮死去の直前には四国中国地方で南朝側と戦っていた細川頼之が道誉など反斯波派の支持を得て管領に就任する。

   頼之は義詮の子で幼少の3代将軍足利義満を補佐し、半済令の試行(応安大法)や南朝との交渉、九州探題今川了俊の任命・九州派遣などの政策を実施するが、旧仏教勢力の比叡山と新興禅宗南禅寺との対立においては南禅寺派を支持していたため比叡山と対立し、比叡山の強訴に屈服、南禅寺の住職春屋妙葩が隠棲して抗議するなど宗教勢力とも対立していた。

   天授4年/永和4年(1378年)、紀伊での南朝方の武将橋本正督の活動に対して、頼之は弟で養子の頼元を総大将として軍勢を派遣するが、諸将が命令に従わず鎮圧に失敗。

   成長した義満は反頼之派の山名義理氏清兄弟を派遣し、大和での軍事活動にも復帰した斯波義将や土岐頼康ら反頼之派を派遣した。

   天授3年/永和3年(1377年)には義将の所領内の騒動が頼之の領地であった太田荘(現富山県富山市)に飛び火すると、頼之と斯波派、土岐氏山名氏らの抗争が表面化し、頼之派から斯波派に転じる守護も現れた。

   反頼之派の蜂起

   天授5年/康暦元年(1379年)に入ると、反頼之派は義満に対して頼之の排斥・討伐を要請し、近江で反頼之派に転じた佐々木高秀が挙兵した。

   中央進出への好機と見た鎌倉公方足利氏満がこれに呼応して軍事行動を起こそうとし、3月8日には関東管領上杉憲春が諌死する事件も起こる。それでも氏満は上杉憲方に出兵を命じるが、かねてから関東管領の地位を狙っていた憲方は伊豆まで兵を進めると密かに義満と交渉して関東管領任命の御内書を得ると直ちに鎌倉に帰還し、4月30日には氏満に迫って管領就任を認めさせた。

   一方、京都では4月13日に義満が義将らの圧力で高秀や頼康らを赦免すると、義将ら反頼之派は軍勢を率いて将軍邸の花の御所を包囲し、義満に頼之の罷免を迫った。そのため義満は閏4月14日に頼之を罷免、頼之は自邸を焼いて一族を連れて領国の四国へ落ち、その途上で出家した。