これにより4ヵ国の守護を兼任する満幸の勢力は山名氏中最大となり、自他ともに認める惣領の地位に就いたかにみえた。

   しかし翌元中8年/明徳2年(1391年)11月、分国出雲の仙洞領(上皇の所領)横田荘を押領したという理由で義満から守護職を解任され京都からも放逐された。

   さらに先に満幸らが追討した山名時煕・氏之の復帰を義満が認めるという噂を聞き、怒った満幸は氏清の分国和泉を訪ねて誘い、ともに室町幕府と戦う約を誓う。12月、山名軍は丹波で挙兵して京都へ攻め込むが、幕府軍の応戦により敗れて氏清は戦死し、満幸は山陰へ逃れた(明徳の乱)。

   その後、満幸は剃髪して僧になり一旦は九州筑紫まで逃げるが、応永2年(1395年)、京都の五条坊門高倉に潜伏していたところを出雲守護京極高詮の手により捕らえられ、斬られた。満幸の死により再び嫡流の師義流から、時義流の時煕およびその子孫に惣領権が移った。

   『明徳記』には、満幸は怯懦な性格であると批難されている

 

   足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代武将室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 – 1358年)。足利将軍家の祖。

   足利貞氏の次男として生まれる。足利氏の慣例に従い、初めは得宗北条高時偏諱を受け氏(たかうじ)と名乗っていた。

   元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への反乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。

   幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を氏(たかうじ)に改める。

   後醍醐天皇の新体制である建武の新政下で、公卿西園寺公宗の反乱計画発覚など政情不安が続く中、鎌倉方の残党北条時行が起こした中先代の乱により窮地に陥った弟・足利直義救援のため東下し、乱を鎮圧したあとも鎌倉に留まり、恩賞を独自に配布した。

   これを独自の武家政権を樹立する構えと解釈した天皇との関係が悪化、建武の乱が勃発した。

 

   箱根・竹下の戦いでは大勝するが、第一次京都合戦および打出・豊島河原の戦いで敗北し、一時は九州に都落ちしたものの、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧、光明天皇を擁立して征夷大将軍補任され新たな武家政権室町幕府)を開いた。一度は京に降った後醍醐天皇は、すぐ後、吉野に脱出し南朝を創始することになった。

   幕府を開いてのち、その基本方針となる『建武式目』を発布。弟・足利直義と二頭政治を布き、保守派の直義に対して、尊氏は革新派の執事高師直を通じて政治改革を行ったが、後に尊氏・師直派と直義派との間で観応の擾乱が起こった。

   師直・直義の死により乱は終息したが、その後も南朝や実子の足利直冬など反対勢力の打倒に奔走し、統治の安定に努めた。

   後醍醐天皇の崩御後は、その菩提(ぼだい)を弔うため天竜寺を建立した。

   勅撰歌人である武家歌人としても知られ、『新千載和歌集』は尊氏の執奏により後光厳天皇が撰進を命じたものであり、以後の勅撰和歌集は、二十一代集の最後の『新続古今和歌集』まですべて将軍の執奏によることとなった。

   誕生と家督相続

   尊氏は嘉元3年(1305年)7月27日に足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は母の実家、上杉氏の本貫地である丹波国何鹿郡八田郷上杉荘(現・京都府綾部市)とされる。

   また、旧来は栃木県の足利荘(足利市)出生とされる事が多かったが、足利荘説は傍証資料に乏しく近年(90年代以降)では概ね否定されている。

   母は貞氏側室の上杉清子(兄に貞氏正室の北条顕時の娘が産んだ足利高義がいる)。

   後世に編纂された『難太平記』では尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩に止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えている。

   元応元年(1319年10月10日、15歳にして従五位下に叙し治部大輔に任ぜられる。また、同日に元服をし、得宗・北条高時の偏諱を賜り高氏(通称は又太郎)と名乗ったとされる。

   15歳での叙爵は北条氏であれば得宗家・赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた。

   そして北条氏一族の有力者であった赤橋流北条氏赤橋(北条)守時の妹赤橋登子を正室に迎える。

   その後、守時は鎌倉幕府の執権となる。『難太平記』は、高氏と同じく足利頼氏側室の上杉氏が産んだ祖父・家時が、自分の寿命を縮めることと引き替えに、子孫3代のうちに足利家が天下を取ることを祈願して自刃したと伝えている。

   元弘元年/元徳3年(1331年)、父・貞氏が死去する。足利氏の家督は一旦は兄の高義が継いでいたが、父より先(高氏の元服以前)に亡くなっていたため、高氏が継ぐことになった。

   元弘の乱

   元弘元年/元徳3年(1331年)、後醍醐天皇が2度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の乱)。鎌倉幕府は高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する。

   このとき、父貞氏の喪中であることを理由に出兵動員を辞退したが許されなかった。