「歴史の回想・明徳の乱」

1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・2

2、 「明徳乱の起因」・・・・・・・・・・・・・・・3

3、 「山名氏の権勢」・・・・・・・・・・・・・・・4

4、 「将軍権力の強化」・・・・・・・・・・・・・・23

5、 「義満・有力大名の弱体化に」・・・・・・・・・57

6、 「有力大名山名氏の内紛」・・・・・・・・・・・62

7、 「守護大名の粛清で分散化」・・・・・・・・・・80

8、 「山名氏清・満幸ら不満で蜂起促す」・・・・・・103

9、 「山名氏清軍と義満軍が激突」・・・・・・・・・123

10、「山名氏派の敗北で一族は縮小」・・・・・・・・128

11、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・135

 

 

 

 

1、「はじめに」

明徳の乱は。1391年(明徳2)も山名氏清・満幸らが室町幕府に背いて挙兵し、討たれた戦乱。南北朝期、山名氏は一時足利直冬党に属して山陰地方に勢力を伸ばし、一族で11か国の守護を兼ねて六分の一殿と呼ばれた。将軍足利義満は惣領山名時義の死を機に強大な山氏一族の勢力の削減を図った。まず1390年山名氏清・道幸らに命じて同時煕・氏之を討たせたが、時煕らが降伏すると、逆に彼らを起用して満幸を退けた。そこで翌年末、満幸は氏清・義理らを誘って藩幕府の兵を起こし、京都に迫った。義満は自ら馬廻り(直属軍)3000騎余を率いて出陣するとともに細川・畠山・大内らの大名を集結し、洛西に反乱軍を迎え撃ってこれを破った。氏清は討ち死に、清幸は参院に逃れたが後に討たれた、義理は遁走して出家し、山名氏は時煕が但馬、氏之が因幡の守護を保つのみとなった。この乱の結果、幕府権力の強大さが明らかになり、余勢をかった義満は翌1392年南北統一を実現した。