9「清洲城」

清洲城(きよすじょう)は、尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった日本の城である。尾張国の中心部に位置し、一時期尾張国の守護所として栄え、京鎌倉往還と伊勢街道が合流し中山道にも連絡する交通の要所として重視された。

応永12年(1405年)、尾張・遠江越前守護の管領斯波義重によって築城。または永和元年(1375年)とも。当初は、尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、文明8年(1476年)に守護代織田家の内紛により下津城が焼失し、文明10年(1478年)に守護所が清洲城に移転することで尾張国の中心地となった。

一時期、「織田弾正忠家」の当主織田信秀が清須奉行として居城した以外は常に清洲織田氏(織田大和守家)の居城としてあり、尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城として機能した。

織田信秀が古渡城に拠点を移すと守護代織田信友が入城したが、弘治元年(1555年織田信長と結んだ織田信光によって信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、本拠として居城した。

信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須を居城とした。

1562年永禄5年)には信長と徳川家康との間で同盟がこの城で結ばれた(清洲同盟)。永禄6年(1563年)には美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。

天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、清洲城にて清洲会議が行われ、城は次男・織田信雄が相続した。

天正14年(1586年)に信雄によって2重の堀の普請、大天守小天守書院などの造営が行われている。

小田原征伐後の豊臣秀吉国替え命令に信雄が逆らって除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには、東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、忠吉が関ヶ原の戦傷がもとで病死すると慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった。

慶長14年(1609年)徳川家康によって、清須から名古屋への遷府が指令されると、慶長15年(1610年)より清須城下町は名古屋城下に移転され(清洲越し)、清須城も名古屋城築城の際の資材として利用され、特に、名古屋城御深井丸西北隅櫓は清須城天守の資材を転用して作られたため「清須櫓」とも呼ばれる。

慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となった。

現在の清洲城

現在、城跡は開発によって大部分は消失し、さらに東海道本線東海道新幹線に分断されており、現在は本丸土塁の一部が残るのみである。

東海道本線以南の城跡(清洲公園)に信長の銅像が、以北の城跡(清洲古城跡公園)に清洲城跡顕彰碑がある。

なお、現在城址のすぐ横を流れる五条川の護岸工事の際に発掘された石垣の一部が、公園内に復元されている。

現在の天守は、平成元年(1989年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して、清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内に建設された鉄筋コンクリート造の模擬天守である。

創建当時の絵図が残っていないため、その規模も不明である。そのため、外観や規模は、実在した当時を想像して設計された。

建造された天守は、桃山時代の城を再現するデザインで、江戸時代の漆喰塗廻の白い城とは異なる、装飾に富んだ姿となっている。

また、清洲城の天守または小天守の部材を転用または、移築したものとされる名古屋城御深井丸西北隅櫓は現存し重要文化財に指定されている。

尾張旭市の良福寺山門は裏門を移築したものと言われ、市の文化財に指定されている。

また、名古屋市の含笑寺と長久寺の山門も移築された門として伝わっている。

清洲城の障壁画は一部が総見寺に移されて現存し、愛知県指定有形文化財(絵画)に指定されている。

崇福寺にも清須城の鯱と伝わっているものがある。

なお、2010年 1月に清須市の「清須越四百年事業」のPR役としてフィギュアスケート選手織田信成が清洲城の名誉城主に就任している(任期は1年間)。

 

5月1912)3時頃、松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始する。

前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長はこの報を得て飛び起き、幸若舞敦盛』を舞った後に出陣の身支度を整えると、明け方の午前4時頃に居城の清洲城より出発。

小姓衆5騎のみを連れて出た信長は8時頃、熱田神宮に到着。その後、軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った。

10時頃、信長の軍は鳴海城を囲む砦である善照寺砦に入っておよそ2,000人から3,000人といわれる軍勢を整えた。

一方、今川軍の先鋒松平隊の猛攻を受けた丸根砦の織田軍500人余りは城外に討ってでて白兵戦を展開、大将の佐久間盛重は討死した。

鷲津砦では篭城戦を試みたが飯尾定宗織田秀敏が討死、飯尾尚清は敗走したが一定の時間稼ぎには成功した。

大高城周辺の制圧を完了した今川軍は、義元率いる本隊が沓掛城を出発し、大高城の方面に向かって西に進み、その後進路を南に取った。

一方の織田軍は11時から12時頃、善照寺砦に佐久間信盛以下500人余りを置き、2,000人の兵で出撃。鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始した(但し、信長は中嶋砦まで進軍していたとする資料もある)。