8「第三次安城合戦」

天文15年(1546年)9月、広忠は再び上野城を攻め、ようやくこれを落とした。その後、義元の仲裁で酒井忠尚との和解に成功し、松平清定も桜井にて蟄居となったが、依然、松平宗家は弱体であった。

翌天文16年(1547年)、広忠は岡崎城を守り織田氏の勢力を西へ押し戻すため今川氏に援助を求めた。

当時、松平信孝が、乙川の南岸の額田郡岡ならびに北岸の同郡大平に砦を築いたことで、岡崎城は東方を扼されて、今川領である宝飯郡方面との連絡が困難な状況にあり、更に佐々木城主の松平忠倫が上和田(碧海郡矢作川東岸の村)と同郡矢作川西岸の筒張に砦を築いて、岡崎城を南と西からおびやかすなど、松平宗家の窮状は極まっていたのだった。

独力では西三河の小大名であり続けることも困難な情勢に直面して、助けを乞う広忠に対し、今川義元は、その見返りに広忠の嫡男竹千代(後の徳川家康)を人質として差し出すことを要求した。

広忠にとって義元は、岡崎城復帰の際など、たびたびの後ろ盾となってくれた恩人であったうえ、今川の助力なくして松平宗家の劣勢は覆うべくもなく、広忠は義元の要求を承諾し竹千代を駿府に送った。

しかし、竹千代は途中で田原城主戸田康光に拉致されて織田氏に売られ、反対に織田氏の人質となってしまう(これに激怒した義元は、吉田城番の天野景貫らに命じて田原城を攻め、康光ら戸田氏宗家は滅ぼされた)、信秀は竹千代を利用して広忠に今川から離反して織田の傘下に入ることを要求したが、かえって広忠は今川氏に対する恭順の姿勢を明確に表し、松平氏は完全に今川氏の傘下に組み込まれることとなった。

これをうけて今川方は、西三河攻略の拠点として利用するため山中城を取り立て、同年7月までに普請を開始した。

一方、広忠は同年9月に松平信孝・松平忠倫らと矢作川の河原で戦うも敗北(渡河原の戦い、渡河原は鎌倉街道における矢作川の渡渉地点だった)、この際、殿となった五井松平家松平忠次鳥居忠宗鳥居元忠の兄)が討死した(尚、忠宗については居館の渡城が信孝勢の襲撃を受け、これ迎え撃とうとした際に真っ向を鉄砲で撃たれて討死したともされる)。

また同時期に織田氏が加茂郡西部の梅坪城を攻め、城主の三宅氏を恭順させた。松平宗家は軍事力の低下により、上和田砦に拠る忠倫と武力で渡り合うことも難しく、翌10月、広忠は家臣に命じてこれを謀殺する。更に広忠は織田氏と通じた松平重弘が拠る本宿城を翌11月に攻略した。

広忠の敵対的態度に業を煮やした信秀は、翌天文17年(1548年)3月、岡崎城攻略へ向けて出陣する。

竹千代の拉致以降もあくまで今川氏への恭順を示し、頑なに織田氏を拒む広忠の態度を見た義元は、松平氏を救援するため軍を送り、6日までに額田郡藤川に進出して本陣を構えた。

この動きを察知した織田勢は9日に矢作川を渡り上和田砦に入って本陣とした。両軍は19日に激突したが(第二次小豆坂の戦い)、この戦闘で織田氏は大敗、信秀は弟の織田信光を殿として上和田に残し、安祥城まで敗走すると、ここを子の織田信広に任せて古渡に帰った。

これをうけて今川勢も本陣のある藤川に戻った。 このような情勢下、翌4月、山崎城の松平信孝は信秀の許しを得て自力で岡崎城を落とす為に出陣するが、額田郡明大寺の耳取縄手における野戦で、矢を射掛けられ討死する(耳取縄手の戦い)。

 もとより信孝の追放は広忠が積極的に行ったものでなく、反信孝派の重臣たちによって主導されたものであった。

広忠としては、信孝が織田氏を頼り敵対する結果に至ったのには自らにも原因があると考えており、叔父である信孝の生け捕りを望んでいたが、意に反して信孝は討死してしまった。

信孝の遺骸を見た広忠は、肉親を追放したうえ討ち取ったことの無慈悲さを家臣たちに訴え、号泣したという。

信孝と忠倫が排除されたことによって、広忠は、同年中に織田氏に下っていた梅坪城を攻略するなど勢力を盛り返しつつあり、分裂した一族を再結集させようとするが、翌天文18年(1549年)3月、岡崎城内にて死去する(広忠の死没に関しては、暗殺説と病死説がある。暗殺説に関しては岩松八弥を参照)。

この報を受けた義元の動きは素早く、松平領押領を完成させるため、同月太原雪斎を将とする1万の軍勢(松平勢を含む)を三河へ出陣させた。雪斎は先ず軍勢の一部を岡崎城に入れた上で尾張からの援路を遮断するため、鳴海・大高方面にも軍を派遣、さらに山崎城など周辺の城砦を攻略して(松平忠倫の死後、佐々木松平家を継いだ弟の忠就は、今川氏の動きをうけ愛知郡梅森など尾張国内の知行を放棄して今川氏に臣従した)、安祥城(兵数不明)を孤立させた後、松平勢が先鋒となり城の北側より攻撃を仕掛けた。

松平勢の奮戦によって、三の丸、二の丸を次々に落とし本丸に迫ったが、城将織田信広を捕縛しようと焦る余り、松平勢の主将本多忠高本多忠勝の父)が深入りしすぎ討死してしまう。

このため松平勢が動揺し、雪斎は攻撃継続を不可能と判断、全軍を岡崎まで撤退させる。

そして同年9月、雪斎は再度出陣する。この時雪斎は、荒川義広の拠点であった幡豆郡荒川山(現在の西尾市八ツ面山)に布陣した(当時の矢作川の川筋は矢作古川であり、現在の流路は矢作古川の排水不良に伴い、江戸時代初期に開削されたものである。

ゆえに当時、荒川山から安祥城までは地続きであった)。同月下旬、今川勢は手始めに織田氏と協調してその軍勢に加担していた幡豆郡東条吉良氏西尾城を攻略した(城主吉良義安は今川氏数代の敵であった尾張守護斯波氏と縁嫁を結んでおり、これを義元に咎められたが、落城後降伏し、親織田派の家臣を処断。義元に許された)。

南方から安祥城へ進撃する今川勢に対して織田氏は、平手政秀を将とする援軍(兵数不明)を派遣し頑強に抵抗するものの、今川・松平勢の猛攻により信広が捕縛され、11月中に安祥城は陥落した。この際、今川勢は火縄銃を効果的に利用したとされる。