この戦いでは、はじめ今川勢は坂の頂上付近に布陣していたために優勢であったが、信広隊も劣勢を悟って無理をせずに兵を信秀本隊のある盗木の付近まで下げ、本隊と合流して勢いを盛り返した織田方の奮戦によって松平隊が崩され、次第に今川方の敗色が濃くなりつつあった。

ところがこの時、伏兵となっていた今川方の部隊が攻勢に転じ、織田本軍に横槍を入れたことで織田勢は総崩れ、再び矢作川を渡って安祥城まで敗走することとなった。

ところで、「松平広忠と岡崎城は今川方にある」ということは、第二次合戦の前提として、これまで全く疑われることがなかった。

ところが、越後国本成寺の第九世である日覚(尾張国の出身で、今川氏家臣の鵜殿氏から帰依を受けていた)が残した書状の中に、天文16年(1547年)9月に岡崎城が織田軍に攻め落とされたという記述があることが判明しこれを事実とする説が村岡幹生によって唱えられた。

この新説は研究者の中でも支持する動きがあり、更にこの説を発展させて、松平竹千代(徳川家康)は戸田康光の裏切りではなく、広忠自身が降伏の証として織田氏に引き渡したとする説まで出されるようになった。

第二次合戦で岡崎城と松平広忠は織田方であったとする説

前述のように、松平広忠と岡崎城が第二次合戦の半年前に織田方に降伏してしまったとした場合、松平広忠はいつまで織田方にいたのか(反対に言えば今川方に寝返ったのか)によって第二次合戦の解釈が全く違うものになってくる。

これについて、村岡幹生は岡崎城が落城したとされる天文16年9月の下旬に発生した渡河原の戦いの段階で広忠と岡崎城が今川方に復帰していた(織田軍が撤退した直後に寝返った)可能性も排除できないとする一方で、第二次合戦当時は広忠も岡崎城も共に織田方で、同合戦での今川氏の勝利後に今川方に復帰した可能性が強いとした。

その根拠として、①『三河物語』には松平勢の動向が全く出て来ないこと。②『松平記』でも岡崎衆を率いているのは今川氏家臣の朝比奈信置である。③この岡崎衆が岡崎城から出陣して東から来る今川軍と合流したとすると、西から矢作川を渡ってくる織田軍に岡崎城の留守を狙われることになる。

④反対に広忠の部隊が岡崎城にいたとしても小豆坂から岡崎城の傍を通って矢作川を渡って撤退する織田軍を迎撃・追撃した記録がないのは不自然である。⑤以上の点からして、松平広忠及び岡崎城が今川方であるとすると、織田軍に内通したと疑われても仕方がないレベルの背信行為を行っている。

として、第二次合戦での岡崎城と松平広忠は織田方についており、今川氏の勝利後に今川方に復帰した可能性が高いとみている。

なお、ここで問題になる今川軍にいた「岡崎衆」の存在であるが、村岡は織田軍への降伏を肯んじえずに今川氏を頼って「牢人」となった松平氏家臣であろうと推測する。つまり、この説に基づくと、当時の松平氏は広忠に従って織田氏に降った家臣とそれを拒否して今川氏を頼った家臣に割れていたことになる。

ただ、村岡の岡崎城と松平広忠の織田方へ降伏した説を支持する研究者でも小豆坂の戦い段階では松平広忠が既に今川方に復帰していたとする見解もある。

例えば、柴裕之は『武家聞伝記』に天文17年に斎藤利政(道三)の説得によって織田大和守と松平広忠が挙兵したことが記されており、この時に広忠が今川方に接近した結果として小豆坂の戦いが起きたとしている。

この説によれば、斎藤道三と松平広忠の同盟の存在とともに、道三の働きかけが第二次合戦の原因の1つであったことになる。

小豆坂の戦い後の織田と今川

第二次合戦において今川氏・松平氏連合は勝利を収めはしたが、この合戦のあった天文17年(1548年)に松平広忠が死亡してしまい、松平氏の次期当主である竹千代が織田氏のもとに人質としてある以上、岡崎城は無主の状態になってしまった。

そこで翌天文18年(1549年)、太原雪斎は人質交換によって竹千代の身柄を今川氏の保護下に奪還することをねらい、11月8日11月26日)から9日11月27日)にかけて今川軍と松平軍を率いて安祥城を攻略、信広を捕虜として、竹千代と交換する交渉に成功した。

今川氏はそのまま竹千代を駿府に引き取って松平氏を完全に保護下に置き、西三河の拠点となる岡崎城に今川氏の派遣した代官を置いた。

一方、安祥城の失陥により織田氏の三河進出は挫折に終わり、さらに天文20年(1551年)には織田信秀が病没、後を継いだ信長とその弟・信勝(後の織田信行)間で内紛が起こった。

この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して鳴海城・笠寺城(それぞれ名古屋市緑区南区)を守る山口氏が今川方に投降し、逆に今川氏の勢力が尾張側に食い込むこととなった。

やがて、弟との争いを乗り切った織田信長は尾張の統一を進めて力をつけ笠寺を奪還、さらに鳴海城の周辺に砦を築き、鳴海城に篭った今川方の武将・岡部元信を攻囲するに至る。

これに対し、永禄3年(1560年)に今川義元は大軍をもって尾張へ侵攻した。鳴海城をはじめ孤立した今川方の勢力を救援し、国境地帯の争いを劣勢から巻き返そうとした。

この戦役において勃発した合戦が桶狭間の戦いであり、主将義元を失った今川軍は三河から急速に勢力を後退させ、かわって松平元康(徳川家康)に率いられた松平氏が復興することになる。

まもなく松平氏は織田氏と同盟(清洲同盟)を結んだため、長らく続いた尾張・三河国境地帯の争いは沈静化していった。

しかし、天文17年(1548)の第二次小豆坂の戦いでは今川方が勝利。翌年、今川方が織田方の三河進出の拠点となっていた安祥城を攻略したことによって、織田氏の三河進出は挫折に終わった。