関連

奇襲は、現在では一般用語のひとつとなっている。例えばチェス将棋では、意表をつくような手を、本格的な戦法と比して奇襲戦法などと呼ぶ。ただし、一般には悪手であり、正確な対応をされた場合には不利、もしくは必敗に陥るような作戦を通常指す。鬼殺しなどが有名。

一般に指されることが少なく、相手には奇異に映る戦法であっても、不利な分かれとなる定跡が確立していないか存在しない場合は、マイナー戦法ではあっても奇襲戦法とは一般にはいわれない。

球技格闘技でも、そのチームや選手の通常のスタイル・通常考えられる起用法からかけ離れた攻撃を繰り出すことを奇襲と呼ぶことがある。プロレスでいえば試合開始直後に通常ならフィニッシュ・ホールドになるような大技を繰り出す、野球ならエースでもなければ有力先発投手でもない選手を開幕戦・シリーズ第1戦の先発投手に起用する、相撲の場合は立合い変化など。

 

 

6「織田信行」(おだ のぶゆき)は、戦国時代尾張武将。同時代史料に見えるは信行ではなく、信勝(のぶかつ)、達成(みちなり)、信成(のぶなり)で。父は織田弾正忠家織田信秀、母は土田御前織田信長の同母弟である。

信行は、父の信秀の生前から尾張国内に判物(公的文書の一種)を発給するなど一定の統治権を有した。

信秀の死後は末森城主となって兄の信長と尾張の支配権を巡って争い、初期の信長の統治にとって大きな脅威となった。

一時は信長に代わって弾正忠家の当主を名乗ったが、稲生の戦いで敗北し、その後、信長に謀殺された。

信行の人物像について詳細は伝わらないが、信秀の葬儀において、信長が奇矯な行動をとった一方で、信行は礼儀に則った振舞いをしたという逸話がよく知られている。

また、白山を信仰していたとされ、鷹狩の名手であったという。

この人物は、基本史料の一つである『信長公記』においては、一貫して「勘十郎」という通称で記されている。

勘十郎なる人物の実名は、江戸時代の『織田系図』などの系図類では「信行」と記載され、一般的にも「信行」として知られる。

しかし、信頼性の高い同時代史料では、「信行」という名を確認することはできない。

昭和44年(1969年)、新井喜久夫は、花押や通称、文書内容を検討して、「勘十郎信勝」として一次史料に残る人物が、天文23年(1554年)に「勘十郎達成」として文書に見える人物と同一人物であると明らかにした。

さらに、達成について、弘治3年(1557年)に「武蔵守信成」として文書を発給している人物とも同一人物であると比定した。そしてこの人物が後に「信行」と改名したと主張している。

「勘十郎」=「信勝」=「達成」=「信成」であることは、その後の研究者も踏襲している。

つまり、「勘十郎」について一次史料で確認できる実名は、「信勝」「達成」「信成」の3通りのみである。

なお、勘十郎が実名を「信勝」から「達成」に、その後に「信成」と変更した背景には、尾張守護代・織田大和守家の存在や稲生の戦いにおける敗北といった理由があったとされる。

(後述)

このような事情から、近年の論文や書籍では、「信行」ではなく、「信勝」として表記されることが多い。例えば、谷口克広の『織田信長家臣人名事典 第2版』は項目名に「織田信勝」を、岡田正人の『織田信長総合事典』は「織田信勝(信行)」をそれぞれ採用している。このほか、池上裕子[16]村岡幹生も「信勝」という表記を使用している。

なお、すでに述べたとおり、通称として勘十郎を名乗り、官途名として武蔵守を使用しているが、これ以外に「弾正忠」を称したとも考えられている。

このように信行の名が実際に使われていたか不確かであるが、この記事では便宜上、以後も「信行」で統一する。

「織田信勝」の登場

織田信秀の三男または四男として生まれており、織田信長はすぐ上の兄にあたる。

母も同じ信秀の正室(継室)土田御前で、信秀の嫡出子は2人だけだった。

生年は不詳であるが、天文5年(1536年)であるともいう[21]。童名は伝わっていない。

父・信秀は、織田弾正忠家の当主であり、守護代の織田大和守家の家臣でありながら、戦国の混乱のさなか、尾張国内に勢力を急激に拡大した人物であった。

しかし、晩年は度々美濃・三河に侵攻するもいずれも敗退し、その支配は動揺していた。

この危機にあたって、天文18年(1549年)、信秀は、那古野城主・織田信長を政務に関与させ、ここに末森城の信秀と那古野城の信長が共同で領国支配を行うという二元体制が築かれた。

天文20年(1551年)前半頃になると、信秀は病床に伏したが[24]、替わって登場したのが信行であった。織田弾正忠家の領域支配を、信行は信長と共同で担うことになる。

同年9月20日、信行は、備後守信秀と三郎信長の「先判の旨」に拠りながらも、熱田神宮寺座主に対して自ら判物を発給し、その権益を保証した。これが信行(勘十郎信勝)の史料上の初見である。

笠覆寺領参銭等之事、誰々雖申掠候、備後守并三郎任先判之旨、不可有相違者也、仍状如件
天文廿 九月廿日 勘十郎信勝(花押)

熱田座主御坊密蔵院文書