これは前年に義元が戸田氏の一族である戸田宣成戸田吉光の一族を滅ぼしたため、戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。

これ対して義元は戸田宗家を武力でもって徹底的に滅ぼし、その居城であった田原城に有力家臣である朝比奈氏を入れた。

天文17年(1548年)、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が侵攻してくるが、義元の軍師である雪斎と譜代重臣である朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝した。(第二次小豆坂の戦い)。

領国拡大

天文18年(1549年)に家臣の謀反で松平広忠が暗殺されると、義元は領主が死去して不在となった松平家に対して支配していた西三河地域を今川家の領土にしようとした。

嫡子の竹千代は織田の人質となっていた事から、岡崎付近に向けて今川軍を派遣した。

岡崎城(現在の愛知県岡崎市)家臣を送り込み、事実上松平家の所領を領有した。松平家の支配下にあった三河国の国人領主を直接今川家の支配下に取り込んでいった。

また、織田方の三河安祥城を攻略(現在の愛知県安城市)して、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した。

これにより継承直後から続いた西の織田氏との争いは今川氏勝利の形で決着した。

また、このおり信秀の庶長子にあたる城将・織田信広を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還、実質自らの配下とすることで尾張進出への足掛かりを着々と築いていく。

天文20年(1551年)に織田信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させる。

更に天文22年(1553年)には亡父の定めた今川仮名目録に追加法(仮名目録追加21条)を加えたが、ここにおいて現在の今川領国の秩序維持を行っているのは足利将軍家ではなく今川氏そのものであることを理由に、室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った。

これは、今川氏は既に室町幕府の権威によって領国を統治する守護大名ではなく、自らの実力によって領国を統治する戦国大名であることを明確に宣言したものでもあった。

天文23年(1554年)、嫡子・今川氏真に北条氏康の娘(早川殿)を縁組し、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成した(この会談は善徳寺の会盟とも呼ばれている)。これにより後顧の憂いを断った。

また弘治元年(1555年)に行われた第二次川中島の戦いでは武田晴信と長尾景虎の仲介を行って両者の和睦を成立させた。

駿河・遠江・三河で検地も実施している。

永禄元年(1558年)には、支配下においていた松平元康をして、三河加茂郡寺部城の鈴木重教を攻めさせて下した。

同年、義元は氏真に家督を譲り隠居する。これ以後、今川氏の本国である駿河・遠江に発給される文書の著名は氏真名となる。

一方、義元は新領土である分国の三河の鎮圧および経営に集中し、それが成るとさらには尾張以西への侵攻に力をそそぐこととなる。

最期

永禄3年(1560年)5月には那古野城を目指し駿・遠・三2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始。

織田方に身動きを封じられた大高城(現在の名古屋市緑区大高)を救うべく、大高周辺の織田方諸砦を松平元康などに落とさせる。

幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて沓掛城で待機していた本隊を大高城に移動させる。

ところがその途上、桶狭間(おけはざま)山で休息中に織田信長の攻撃を受け、松井宗信らと共に奮戦するも、織田家家臣・毛利良勝に愛刀・義元左文字と首級を奪われた。享年42。

その後、残存した今川兵によって駿府まで連れ帰ろうと試みられたが、首の無い義元の遺体は想像以上に腐敗の進行が早く、三河国宝飯郡に埋葬された。

死後

織田方に討ち取られた首級は、鳴海城に留まり奮戦する義元の重臣・岡部元信と信長との開城交渉により後に返還され、駿河に戻った。

義元の戦死により氏真が後を継いだが、この混乱に乗じて松平元康が西三河で自立(独立)した。

この動きに追従する様に東三河でも戸田氏・西郷氏などが離反、松平氏の傘下へ転属していく。

この様な三河の動揺が隣国・遠江に伝播すると、正誤の判別がつかない噂が飛び交い、遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な疑心暗鬼の状態に陥ってしまった(遠州錯乱)。

この動揺期において氏真は若輩だったこともあり人心掌握の才に欠け、井伊直親飯尾連竜などを粛清することで事態の収拾を試みたが、逆に人心の離反を加速させてしまい家臣(国人領主)の離脱が相次いだ。

多くの国人領主の支持を失い自国領内すらまともに統治できない状態となった今川氏は、見る見るうちに衰退していき義元の死から9年後の永禄12年(1569年)、氏真は信玄と家康によって駿河・遠江を追われ、大名としての今川家は滅亡した。

駿河追放後、氏真は妻・早川殿の実家北条家に身を寄せたが武田・北条の同盟が復活すると徳川家康の家臣となる。江戸期に今川氏は高家旗本として幕臣に列した。