ただし、その後も少なくても永正9年(1512年)頃まで早雲が駿府を訪問し、同年発生した長尾景春の駿河亡命にも早雲が関与しているとみられることから、早雲と今川氏の関係はその後も続いていたと考えられている。

永正年間に入ると、足利義澄の後見人であった細川政元が斯波義寛と上杉顕定の連携を働きかけるようになり、氏親と早雲は次第に義澄と距離を取り始めて、従兄弟である前将軍足利義稙との関係を図るようになる。

永正5年、義澄が義稙に将軍職を奪われると、正式に幕府と将軍家から遠江守護に任じられ、遠江支配の大義名分を得た。

永正8年(1511年)に遠江・尾張守護の斯波義達が今川方の刑部城(現在の静岡県浜松市)を攻めると出陣してこれを退けたが、義達はなおも攻撃を続け、遠江での斯波氏との戦いが激化した。

永正13年(1516年)に引馬城(現在の浜松市)の大河内貞綱が今川家に背き、義達も加わる。氏親は出陣して引馬城を包囲。

永正13年(1517年)、氏親は安倍金山の鉱夫を用いて坑道を掘って水の手を絶って引馬城を降伏させた。

貞綱は討ち死にし、義達は出家して降伏し、尾張へ送り返された。これにより、遠江が平定された。

また、永正12年(1515年)には、甲斐西郡の国人領主である大井信達に味方して守護・武田信虎と争い、中道往還沿いの勝山城を一時占拠している。

永正14年(1517年)、氏親は信虎と和議を結び撤兵し、信達は信虎に降伏した。その後も、氏親後期に甲駿同盟が成立するまでたびたび甲斐への侵攻を行い、武田氏との対立が続いた。

氏親は新たな領国となった遠江の支配を固めるために永正15年(1518年)以降、検地を実施している。

また、安倍金山を開発して財力を増した。

公家出身の寿桂尼との結婚によって京とのつながりが強まり、京の文化を駿府に取り入れたとされる。

氏親も和歌連歌を特に好んだ。晩年は中風にかかって寝たきりになり、寿桂尼が政治を補佐した。

死の2ヶ月前の大永6年(1526年)4月に戦国時代の代表的な分国法今川仮名目録』を制定している。嫡男氏輝がまだ成人していないため、家臣の争いを抑える目的であった。

検地の実施と分国法の制定によって、氏親の代に今川氏は守護大名から戦国大名の段階へ移ったと言われている。

大永6年(1526年)6月23日、氏親は駿府の今川館で息を引き取った。

氏親の葬儀は増善寺で執行され、7,000人の僧侶が参加し、葬儀の喪主である氏輝が祭文を読み、棺の綱は善徳寺の御曹司・栴岳承芳(後の今川義元)、御位牌は花倉の御曹司・玄広恵探がもって曹洞宗最高の法式で行われた。

『増善寺殿法事記録』『今川氏親公葬記』に葬儀の詳細が記録され現存している。

人物

今川氏の歴代当主は臨済宗を重んじてきたが、氏親だけは曹洞宗を重んじてきた。

これは幼少時に小鹿範満に追われた時に龍王丸を保護した法永長者(長谷川政宣)が石雲院を開いた崇芝性岱の門人・賢仲繁哲の庇護者で、氏親も賢仲や同門の辰応性寅を深く崇敬して曹洞宗の保護に積極的であった。

氏親は代々崇敬してきた臨済宗の善徳寺の保護にも努めて同寺の住持を長く務めた黙堂寿昭が没すると、琴渓承舜を招いて息子の芳菊丸(後の今川義元)を預けているが、氏親の葬儀で主な役割を務めた僧侶はほとんどが崇芝性岱の流れを汲む僧侶であった。

氏親の没後、後を継いだ氏輝と母の寿桂尼が琴渓承舜の弟子である太原雪斎を顧問とし、続いて臨済宗の僧侶から還俗した義元が後を継いだことで、再び臨済宗が重んじられるようになるが、曹洞宗の勢力も今川氏領国において無視できないものとなっていた。

氏親の男子の出生順は通説では氏輝・彦五郎・玄広恵探・栴岳承芳(義元)とされるが、これについては近年様々な異説がある。

例えば、黒田基樹は氏輝・玄広恵探・彦五郎・栴岳承芳(義元)とする説[42]を採り、大石泰史は氏輝・玄広恵探・栴岳承芳(義元)・彦五郎の順とする説[43]を採る。

なお、黒田・大石ともに氏豊・象耳泉奘は江戸時代初期の今川氏の系譜にみられないことから、氏親の子ではないとする見解を採り(今川氏一門の出身であった可能性はある)、黒田は氏親の女子で実在を確認できるのは、吉良義堯室・中御門宣綱室・北条氏康室(瑞渓院)・瀬名貞綱室の4名とし、瀬名貞綱の実弟である関口氏広の室を義元の妹とするのは貞綱との誤認と推測している他、小笠原春茂の室や鵜殿長持の室に関しても『寛政重修諸家譜』には記述があってもそれよりも古い『寛永諸家系図伝』には記載がなく事実ではないとする。

 

今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代駿河国及び遠江国守護大名戦国大名今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。

寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。

所領も駿河遠江から、三河尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦い織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。