今川氏の家系の謎

1つは『今川家譜』・『宇津山記』によれば、範満襲撃以前より住んでいた丸子館を家督継承後もしばらくの間本拠にしていたと推測される点。

もう1つは、通常の武家の元服は15歳前後であるのに、氏親は19歳(もしくは21歳)にあたる延徳3年(1491年)まで龍王丸の名乗りを用い、その後、明応3年(1494年)9月まで黒朱印の印判状を発行(後述)し、翌4年(1495年)になって初めて「氏親」の署名や花押のある文書が登場するという点である。

前者については、黒田基樹は対外戦争と並行して行われた国内平定が明応4年ごろに完了して氏親が駿河一国を掌握したのを機に本拠を今川館に移したと推測している。

また、後者については実は明応4年以前に元服していたとする説があり、例えば家永遵嗣は『今川記』の異本である『富麗記』の記述により、堀越公方足利政知が晩年に古河公方討滅を意識して「氏満」と名乗った上で龍王丸に偏諱を与えて「氏親」と名乗らせたが、延徳3年(1491年)に政知が死去して堀越公方と今川氏が対立関係となり反対に一時的に古河公方との関係改善が図られる中でこの元服と偏諱の事実を秘匿する必要があったが、最終的には堀越公方は没落して古河公方との関係修繕も失敗したために公然と「氏親」と称するようになったとする。

これについて黒田基樹は『富麗記』に記された政知の改名の事実を裏付ける史料などは発見されておらず、この説を採用することは出来ず、20歳を過ぎても元服も諱を持たないことも異質ではあるものの、氏親の今川館入城の問題と共に国内問題と考えるしかないのではないか、と推測している。

これより前、同年10月に龍王丸は大名で初めての印判状の文書を発給している(定着はせず、後に通常の花押を用いるようになっている)が、これも前述の問題を踏まえると文明19年(1487年)から明応3年(1494年)まで氏親が元服できなかった(花押が持てなかった)事態を反映していた可能性がある。

氏親の家督継承に功績があった盛時には富士下方12郷と興国寺城が与えられた他、御一家(後述)と同様の待遇が与えられたとみられている。

黒田基樹は国内平定の過程でそれまで堀越公方や扇谷上杉家などの影響力が及んでいた駿河東部にも今川氏の支配が及んだ結果、盛時が興国寺城に入ることになったと推測している。

氏親には男兄弟がいなかったこともあり、今川氏の一族などを「御一家」として重用し、氏親の補佐や時には職務の一部の代行をさせた。

永正10年(1513年)に駿府を訪問した冷泉為広の日記によれば、今川民部少輔(小鹿範満の甥・孫五郎と推定)・瀬名源五郎(瀬名氏貞)・葛山八郎(葛山氏広)・関口刑部少輔(関口氏兼)・新野(遠江新野氏か)・名古屋新五郎(今川名古屋氏か)の6名が挙げられ、母方の叔父である伊勢盛時もその一人と考えられている。

今川家当主

延徳3年(1491年)、堀越公方足利政知が死去した後に堀越公方内部で内紛が発生し、一旦は京都に戻っていた伊勢盛時も再び駿河に下向している。

明応元年(1492年)、甲斐国では守護武田信昌が嫡男の信縄に当主を追われ、信昌や穴山信懸は次男の信恵を後継者に立てて信縄と争った。

氏親は諏訪頼満と共に信昌を助けるために甲斐に出兵した。

その後、穴山氏は氏親に従属の約束をしている。

この武田氏の政変と今川氏・諏訪氏の介入の背景には足利政知没後の堀越公方の内紛と関わりがあるという見解も出されている。

その後も堀越公方の内紛が続き、明応2年(1493年)に11代将軍足利義澄の命により、盛時(以後早雲と表記する)は義澄の異母兄足利茶々丸を討伐して、伊豆を手中にした。

氏親も早雲に兵を貸してこれを助けている。これは管領細川政元が起こした明応の政変に連動した動きであった。

以後、氏親と早雲は密接な協力関係を持って支配領域の拡大を行うことになる。

駿河国の隣国・遠江は元は今川氏が守護職を継承していたが、後に斯波氏に奪われていた。

遠江奪還は今川氏の悲願となり父は遠江での戦いで命を失っている。当主となった氏親も積極的に遠江への進出を図り、守護斯波義寛と対立した。

遠江への侵攻の兵を率いたのは早雲で、明応3年(1494年)頃から始まり、遠江中部まで勢力下に収めた。早雲は更に兵を進めて文亀年間(1501年 – 1504年)には三河岩津城愛知県岡崎市岩津町)の松平氏を攻めているほか、牧野古白を滅ぼして奥平定昌の従属には成功している。

同じ頃甲斐都留郡にも出兵して郡内領主の小山田氏や守護の武田氏と戦っている。一方、氏親も早雲の関東進出にも協力して長享の乱に介入し、扇谷上杉家に味方して山内上杉家と戦った。

永正元年(1504年)の武蔵立河原の戦いに早雲と共に出陣して関東管領上杉顕定を破っている。

永正2年(1505年)頃に中御門宣胤の娘(後の寿桂尼)を正室に迎える[23](この頃より修理大夫を称す)。

永正3年から5年(1506年 – 1508年)には再び早雲率いる今川軍が三河へ侵攻して、松平長親(長忠)と戦ったが、岩津城下井田野(愛知県岡崎市井田町)で敗れたが、結果的には岩津松平家は衰退して長親の安祥松平家が台頭することになった。

永正6年(1509年)以降は早雲の今川家の武将として活動がなくなる。この頃に早雲は政治的に今川家から独立したようで、以後は関東進出を本格化させる。