羽黒権現(はぐろごんげん)は出羽国羽黒山山岳信仰修験道に基づく神仏習合の神である。本地垂迹説に基づき聖観音菩薩本地仏として「権」(かり)の姿で現れた垂迹神とされた。羽黒大権現や羽黒山大権現とも呼ばれた。出羽三所大権現の一つである。

羽黒山大権現・月山大権現・湯殿山大権現は古くは羽黒三山(あるいは羽州三山)と総称され、大峯山彦山と並ぶ修験道の道場として栄えた。羽黒山頂の羽黒山寂光寺大堂(金堂)には三山の本地仏(聖観音菩薩・阿弥陀如来・大日如来)が安置されていた。慶應4年(1868)の「神仏判然令」によって権現号が禁止され、仏像は廃棄されるか、末寺などに移された。手向黄金堂にある仏像はその名残である。大堂は三神合祭殿と改められ、月山と湯殿山は冬期の参拝が困難であることから、三山の神を合祭している。

現在は、出羽神社月山神社湯殿山神社を総称して、出羽三山神社と呼ぶ。しかし、出羽三山は昭和10年代に登場した新しい呼称である。神仏分離廃仏毀釈によって、三山信仰は大変貌を遂げた。各地に残る羽黒神社は、かつての羽黒権現である。

由来

崇峻天皇の第三王子である蜂子皇子が三本足の霊烏に導かれ、羽黒山の阿古谷で聖観音菩薩の霊験を得て開山したとされる。中世にはその垂迹神が羽黒山大権現と呼ばれるようになった。

明治の神仏分離によって仏教色が廃され、正史の記録に残る蜂子皇子の開山とされるようになったが、江戸時代初期の『羽黒山縁起』には蜂子皇子の名はない。

神仏分離・廃仏毀釈

明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道の神である羽黒権現は廃された。羽黒山寂光寺は廃寺に追い込まれ、出羽神社(いではじんじゃ)に強制的に改組された。全国の羽黒権現社の多くは神道の羽黒神社あるいは出羽神社となっている。

羽黒修験

中世の羽黒修験道については史料はほとんど残されていない。天宥別当の時に、東叡山寛永寺直末となり、江戸幕府の庇護の下で、西国の熊野三所権現に対する東国三十三ヶ国総鎮守の三所権現(羽黒山大権現・月山大権現・湯殿山大権現)として、宗教的にも経済的にも隆盛を極めた。

羽黒修験道は廃仏毀釈等による壊滅は免れた。現在は、仏教寺院として存続した手向の正善院を中心とした宗教法人羽黒山修験本宗が、神道側とは別に羽黒山の峰入りを継続している。

毎年、8月に行われる荒沢寺での秋の峰入り(峰中行)では十界修行が行われ、南蛮燻しや、自己の肉体を焼尽して生まれ変わる柴燈護摩などの死と再生の修行は秘行として知られる[5]

羽黒権現を祀る寺院

少数ではあるが、廃仏毀釈を免れて現在でも羽黒権現を祀る寺院が存在する。

長命山笹野寺(山形県米沢市

湯殿山

荒澤寺(山形県) - 羽黒山修験本宗/羽黒修験

甑岳(山形県) - 古流修験本宗

鳥海山(山形県)

鳥海山大物忌神社 - 鳥海修験

鳥海修験(ちょうかいしゅげん)は、山形県秋田県に跨る鳥海山において行われた修験道。古代よりそのものとされた鳥海山は、登山口ごとに修験が発展していった。

以下、修験道の概要も交えながら、鳥海修験について解説する( 修験道 も参照のこと)。

修験道は役小角(役行者とも)が創始したと言われる。『鳥海山信仰史』によれば、役小角は静寂清浄な場所、更に雄大な山には神が存在すると認め、そこを修行の地とした。

修験の作法には順峯逆峯があるが、熊野山(和歌山県)から大峯山に入って吉野山(奈良県)へ出る修行を順峯と言う。これとは逆に、吉野山から大峯山に入って熊野山へ出る修行を逆峯と言う。

なお、『鳥海山信仰史』[1]では修験には、以下のような2派が存在すると述べている。

本山派 : 天台宗系 (本山は聖護院)、熊野派、順峯

当山派 : 真言宗系 (本山は醍醐三宝院)、吉野派、逆峯

鳥海山の場合、宗派と入峯の順逆が必ずしも上記とは一致しない。『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』では、地理的な理由から、ある程度早く開けた登山口を表口、遅く開けた登山口を裏口と呼び、表口からの入峯を順峯、裏口からの入峯を逆峯とした例が出羽三山にも見られることから、鳥海山でも同様に順峯と逆峯が称されたのではないか、と述べている。

なお、『鳥海山史』では、『矢島史談』にある春の修行を順峯、秋の修行を逆峯と呼ぶ説を紹介している。

古来より鳥海山は神の山とされたが、神仏習合思想により本地垂迹説がもたらされると、薬師如来(薬師瑠璃光如来)が日本の鳥海山に鎮座する大物忌神となり民衆を救済する、という前提から鳥海山大権現が現れたとされ、鳥海山は神の御座す修行の場となり、矢島・小滝・吹浦・蕨岡などの主要登山口に修験者が集うようになった。

『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』によれば、本地は薬師瑠璃光如来、垂迹は豊玉姫命だとされていた。

『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』では、蕨岡が鳥海修験の一拠点となった時期は吹浦に神宮寺が置かれた頃と推測し、『鳥海山史』では、吹浦・蕨岡よりも矢島方面の修験道が相当古い由緒を持っていると推測しているが、峰々の曼荼羅化や入峰方式が確立される経緯や、各登山口にいつから修験者が住み着いたか等については、史料が欠けており不詳である。やがて、各登山口の修験者は、諸事情から対立を深めていった。

『鳥海山信仰史』では、各登山口に関する『飽海郡誌』の一説を紹介している。それによれば、吹浦は大物忌神を祀って重きを社頭に置き、蕨岡は鳥海山大権現の学頭別当として直接に山上に奉仕して全山の支配権を享有していたのだと言い、同書ではこの記事を真実であると紹介している。

また、棟札などの資料から見ると、鳥海山登拝修行道者を先達するところの鳥海山開発経営は矢島、小滝、蕨岡の3つの登山口の修験によって行われ、吹浦の修験は伝統により神領に頼った専ら社前(両所宮、神宮寺)の加持祈祷のみに収入を求めたと見られる、と述べている。