しかし、神仏習合の考え自体は明治時代の神仏分離まで衰えることなく続いている。現在、仏教の寺院の墓地における墓石板塔婆がそれぞれ石と木で作られることを、神社における磐座神籬の影響とする説があるように、近現代においても日本人の精神構造に影響を及ぼしている。

 

また、高弟にのちに国家の医療呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任ぜられた韓国広足(韓國 廣足)がいる。

韓国広足(からくに の ひろたり、生没年不詳)は、7世紀末から8世紀日本呪術師である。

姓(カバネ)は。氏は物部韓国(もののべのからくに)ともいう。役小角を師としたが、699年に小角を告発した。呪禁の名人として朝廷に仕え、732年典薬頭になった。外従五位下

事績

韓国氏は古代の有力氏族である物部氏の分かれで、先祖が遣わされた国にちなんで改姓したと伝えられる。在来の氏族ではあるが、その系譜から外来の知識・技能を学ぶに適した伝統があったと思われる。

続日本紀』によれば、文武天皇3年(699年)5月24日に呪術者の役小角が伊豆島に遠流された。外従五位下韓国連広足は小角を師としたが、後にその才能をねたんで(あるいは悪いことに使われ)、妖惑だと讒言した。

この箇所の解釈には、讒言したのは誰か別の人であるとしたり、そもそも広足が小角を師としたくだりが後世の挿入だとする説もある。『続日本紀』には外従五位下とあるが、韓国がこの位を授けられたのは天平3年であり、この時点ではもっと低かったはずである。

役小角は修験道の祖として有名だが、確かな歴史事実はこの事件のみで、他の事績は伝説に包まれている。妖惑とされた事実の有無・内容については不明だが、「讒言」という評価は『続日本紀』が編纂された100年後までの後世にできたものであろう。

韓国広足は、『藤氏家伝』の「武智麻呂伝」に、余仁軍とともに呪禁の名人として記される。また、大宝令の注釈である『古記』に「道術符禁は道士の法で今辛国連がこれを行なう」とある。この辛国連(韓国連)は、広足のことであろう[8]。広足の呪禁は道教的な術であったと考えられる]

天平3年(731年)1月27日に物部韓国広足は外従五位下になった。翌4年(732年)10月17日に典薬頭に任命された。典薬寮には呪禁博士1人、呪禁師2人、呪禁生6人が配属されていたので、広足は朝廷の呪禁者として勤め、典薬頭に上りつめたのであろう。その後の事績は不明である。

 

文武天皇3年(699年5月24日に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島流罪となる。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。

命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。

2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、茅原に帰るが、同年6月7日に箕面山瀧安寺の奥の院にあたる天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68。山頂には廟が建てられている。

中世、特に室町時代に入ると、金峰山、熊野山などの諸山では、役行者の伝承を含んだ縁起や教義書が成立した。金峰山、熊野山の縁起を合わせて作られた『両峰問答秘鈔』、『修験指南鈔』などがあり、『続日本紀』の記述とは桁違いに詳細な『役行者本記』という小角の伝記まで現れた。こうした書物の刊行と併せて種々の絵巻や役行者を象った彫像や画像も制作されるようになり、今日に伝わっている。

寛政11年(1799年)には、聖護院宮盈仁親王光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。

同年、正月25日に光格天皇は、烏丸大納言勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)を贈った。勅書は全文、光格天皇の真筆による。聖護院に寺宝として残されている。

伝説

役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。

ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。

そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。

役行者は、流刑先の伊豆大島[注 5]から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。

また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。