43、領地替えの反対一揆【荘内藩天保11年転封反対一揆】

「荘内藩天保11年転封反対一揆」江戸後期、天保の改革直前、三方領知替に伴う領主の転封に反対したおきた百姓一揆。転封の発令された1840年(天保11)11月の後半、庄内藩主の「善政」を書き上げ、転封令の中止を求める村役人が組織した江戸出訴の動きが始まった。同時に領内百姓の集会がもたれるようになり、翌1841年の2月には1万5000名規模の集会になった。

村、組、郷、通を単位とした全藩的規模の反対一揆で、庄内藩の天保の改革による負担増に加え、移転費用の重圧に対して軽減を求める要求を含んでいた。仙台、水戸などの近隣有力大名に訴願し、諸大名の幕府批判を引き起こし、7月転封令を撤回させた。

 

◎三方領知替え(さんぽうりょうちがえ)とは、江戸時代江戸幕府が行った大名に対する転封処分の手法のひとつ。

大名3家の領地(知行地)互いに交換させることを言う。例えば、領地Aを持っている大名家Aを領地Bへ、領地Bを持っている大名家Bを領地Cへ、領地Cを持っている大名家Cを領地Aへ同時に転封すること。「三方領地替え」「三方所替え」「三方国替え」とも書く。

江戸時代を通じて何回か行われている。4家が関係した「四方領知替え」の例もある。天保11年(1840年)・武蔵国川越藩松平斉典出羽国庄内へ、庄内藩酒井忠器越後国長岡へ、長岡藩牧野忠雅を川越へ転封しようとしたもの。

実現することはなかったが、数ある三方領知替えの中で最も有名である。第11代将軍徳川家斉の実子・斉省を養子にとった川越藩主松平斉典が、実高が多く裕福な 庄内藩領地を狙って幕閣に働きかけたものだったが、庄内藩の士民を挙げた猛烈な抵抗にあい(天保義民事件)、翌年閏1月に家斉が没すると諸大名の間でもこの問題に対する不満が高まった。

同年7月に12代将軍徳川家慶の「天意人望」に従うとする判断によって沙汰やみになった。

 

◎天保義民事件は、天保11年(1840)に出羽国庄内藩主酒井忠器らに出された三方領知替えに対して、庄内藩の領民が反対運動を展開した事件。天保11年(1840年)庄内藩主酒井忠器は江戸幕府より、越後長岡藩への転封命令を受けた。

庄内藩は表高14万石であるが、実高は21万石と言われ、藩主忠器らによる殖産興業や農政改革によって比較的安定した藩財政を維持していた。ところが、この転封が武蔵川越藩主松平斉典が実子を排除して大御所徳川家斉の子斉省を養子に迎えたことと引換に豊かな庄内藩を与えるために行われるものと判明したために庄内藩内は紛糾した。

庄内藩の領民は酒井家が何の落ち度もないのに、表高7万4千石に過ぎない長岡藩に転封させられるのは道理に反するとして西郷組のや玉龍寺の僧侶文隣らを中心に「百姓と雖も二君に仕えず」と宣言して反対運動を展開し、江戸でも公事師をしていた同藩出身の佐藤藤佐らが、反対運動を行った。

ところが、翌天保12年(1841年)1月に家斉が、続いて5月には斉省が病死したこと、更に川越藩が斉典の生母を通じて大奥から老中水野忠邦ら幕閣に対して転封工作を行ったことが明らかになると、諸大名からも批判の声が上がるようになり、7月に将軍徳川家慶の名において、三方領知替えの中止と川越藩への2万石の加増が決定された。

また、当時は民衆が徒党を組んで公儀に対して反抗することはもっとも重い罪とされ、主だった者は死刑とされていたが、処罰の権限を持つのは主君である庄内藩酒井家である(幕藩制の下では、江戸幕府や徳川将軍家は藩主である酒井家とは主従関係にあったが、酒井家と主従関係にある庄内藩の家臣や領民に対しては直接処分する権限はなかった)ため、何ら処分が行われなかった。

この事件の背景には藩主を支持する領民の動きを幕府が抑えきれなかったこともあるが、後に「天保の改革」と呼ばれる老中水野忠邦の幕政改革に対する諸大名や民衆の不満の高まりとともに、水野への支持と幕府に対する反抗の広がりへの危惧の板挟みとなった将軍家慶の政治的判断があったと考えられている。実際、三方領知替え決定の責任者であった水野忠邦は、幕府の命令が事実上破棄されるという前代未聞の事態にも関わらず、老中の地位を慰留されている。

 

*文隣 (ぶんりん)1800~1863 江戸時代後期の僧。寛政12年生まれ。出羽(でわ)飽海(あくみ)郡(山形県)の法華宗(ほっけしゅう)玉竜寺の住職。

天保11年幕府が鶴岡藩主酒井忠器(ただかた)に越後(えちご)(新潟県)長岡への転封を命じた際,本間辰之助らとともに藩内の農民をひきいて反対運動を展開し,幕府に中止をみとめさせた。文久3年9月13日死去。64歳。俗名は佐藤彦太郎。

 

※「荘内藩天保11年一揆」は天保改革の一連の中で起きた。「三方領知替」に農民は反対した一揆である。三方領知替とは江戸幕府は幕藩の相互に転封しあう手法の一つである。

大名の都合で、お国替えされると百姓には移転費用の重圧に、苦しい百姓の負担となる。転封令に村役人が組織的に出訴の動きが始まった。

同時に領内の百姓が集会を開き日頃の不満と相成って、1841年の2月には1万5000人の規模の集会は、村、郷通の単位で軽減を求め、近隣の有力大名にも訴願し、、庄内藩の何の落ち度もないのに、7万4000石に転封させられるのに道理に合わないと西郷組や玉龍寺の住職文燐らが反対し、江戸にも働きかけた。この三方領知替は老中水野忠邦の工作と知っても諸大名からも批判が続出した。結果、7月転封令を撤回させた。