39、皮産物の不吉と一揆打毀し多数処刑【長州藩天保一揆】

「長州藩天保一揆」1831年(天保2)長州藩領内のほぼ全域に起こった一揆。防長一揆ともいう。防長一揆ともいう。藩内農民の皮迷信(秋口に皮類を扱うと凶作になる)による皮騒動を発端とし、瀬戸内側や近接地域で一揆が拡大し第一期(7月下旬から8月上旬)と藩の一揆が鎮静工作の過程で、各地域での様々な矛盾に表面化し、一揆が同時多発化し第二期(8月下旬から11月上旬)と続く。

第一期では藩の産物取り立て政策による。米価・諸物価格高騰で苦しく下層・貧困層の、産物会所、米穀商人、村役人への打毀しが先行し第二期も米穀不足の状況下で村役人の不正疑惑や村政運営への不満が爆発、各農民層を巻き込んだ広範囲で長期の抵抗が続いた。同藩では1830年と1837年の一揆があり、藩体制は動揺した。

 

◎「長州天保大一揆」1831年(天保2)防長両国にわたり、藩府の専売制強化に反対して起こった大百姓一揆。参加者は15万~20万ともいわれる。一揆の原因は、藩府が安い値段で各地の特産物を買い上げる「御内用産物方」を設置したことによる。この制度は、藩の専売制の強化策であった。

一揆の発端は、長門(ながと)国吉敷(よしき)郡小鯖(おさば)村(山口市)の皮番所で、産物方用達が禁忌を犯して犬皮を用いていることを見とがめられた事件に始まり、これを契機に、またたくまに藩内12地区に次々と広がった。

一揆勢は各村の御内用方(庄屋(しょうや))宅を打毀(うちこわ)したが、その数は741軒に達した。藩府は同年末から主謀者の検挙を行い、死罪10名、遠島24名という処分をした。

 

◎「長州一揆」1831年(天保2年)、小鯖[おさば]村(山口市)で中関の御用商人石見屋嘉右衛門[いわみやかえもん]が駕籠に犬の皮をしいていたのを農民が見つけたことから騒ぎとなり、一揆に発展しました。当時、稲の穂が出る頃に皮革類が田の回りを通ると風雨を招くと言われており、農民達は皮革類を持ちこませないように見はる小屋を立てて、通行人の荷物を調べていました。

石見屋は、皮革類を持ち歩くことで天候をくずし、米の値段が上がるのを利用してもうけようとした、と思われたのです。一揆勢は各地で村役人や商人の家を打ちこわし、どんどんその人数を増やしていきました。この一揆は最終的には、三田尻宰判だけでなく長州藩全体を巻き込む一揆となり、十数万人が一揆に参加したと言われています。

 

◎長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代周防国長門国を領国とした外様大名毛利氏を藩主とする。家格は国主大広間詰。藩庁は長く萩城萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩と呼ばれる事例もでてきた。

一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。幕末には討幕運動の中心となり、続く明治維新では長州藩の中から政治家を多数輩出し、日本の政治を支配した藩閥政治の一方の政治勢力「長州閥」を形成した。

長州藩の江戸中期・1831年(天保2),長州藩全藩を席巻した大百姓一揆天保大一揆ともいう。長州藩は1829年(文政12)に産物会所を設けて特権的な豪農商を御用達に任命し,翌年には薬種と綿以外のいっさいの商品の他国からの仕入れを禁止して,農民の商品経済を藩の厳重な統制の下に置いた。

1831年7月末,この産物政策にからんで,吉敷郡小鯖村の皮番所での御用達商人と農民の紛争が発端となり,百姓一揆が勃発した。7月に瀬戸内海沿岸地帯の三田尻,山口,小郡を中心に広がり,9月には瀬戸内海沿岸の他の地域,中部山間部,日本海沿岸地帯へと波及し,代官らの取締りも効果を示さず,一門寄組以下正規藩兵が城下入口の警固と鎮圧に出動した。

江戸時代中期には、第7代藩主毛利重就が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。天保3年(1831)には、大規模な長州藩天保一揆が発生。

その後の天保8年(1836)4月27日には、後に「そうせい侯」と呼ばれた毛利敬親が藩主に就くと、村田清風を登用した天保の改革を行う。改革では相次ぐ外国船の来航や中国でのアヘン戦争などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得た。

 

*毛利 重就は、長門長府藩第8代藩主、のち長州藩第7代藩主。ははじめ元房、のち匡敬(まさたか)、重就(しげなり)、さらに重就(しげたか)と改めた。享保10年(1725)、長州藩の支藩である長府藩主毛利匡広の十男として生まれる。幼名は岩之丞。

匡広の跡を継いだ五男の師就が享保20年(1735)に死去した際、師就の実子・多賀之丞(毛利教逵)は出生が幕府に未届けで相続が認められず、匡広の七男の政苗、八男の広定はそれぞれ清末藩主、右田毛利家を継いでおり、仮養子として届けられていた岩之丞(重就)が家督を相続することになった。

また、宝暦元年(1751)には本家にあたる長州藩第6藩主・毛利宗広が早逝し、世嗣がないことなどで、末期養子として家督を相続する。長州藩は、天災による米の不作、藩商品の販売不振などにより収入が減少し、財政赤字に陥っていた。重就は藩主就任と同時に坂時存長沼正勝ら3家老を招集し、改革案の提出を要請する。

宝暦3年(1753)「三老上書」が提出される。内容は、経費の削減などから新田開発、荒廃田の復旧、築港による流通整備などが掲げられていた。重就はまず検地を行い、8年後には新たに4万石分の収入を得ることに成功した。

この収入を藩財政には組み込まず撫育方を設立させ、こちらの資金として充てる。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764)、鶴浜を開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関(三田尻)の港整備を行う。港の改良により回船の寄港地として発展させると同時に、藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い、利益を得る。撫育方がほぼ全てにあたった。

また、塩田開発も進め、明和年間には21万石に上がる収益を得たと言われている。この他にも製紙、製蝋、製糖などにも力を入れた(防長三白)。一方で、過度な年貢取り立てなどの政策は一揆に悩まされることにもなった。天明元年(1781)、徳川家治の嗣子に一橋家の男子の豊千代が決定し、徳川家斉と改名すると、“しげなり”の“なり”が将軍嗣子の本名と同じだったため、読みを“しげなり”から“しげたか”に改める。天明2年(1782)に家督を四男・治親に譲って隠居し、自身は三田尻の三田尻御茶屋に住んだ。7年後の寛政元年(1789)に死去した。享年64。

 

※長州藩天保一揆は「皮迷信」によりことから端を発し、その皮迷信は(秋口に皮製品を扱うと凶作になる)という言い伝えで一揆が始まった。藩は各地の特産物に「御内用産物方」が皮番所で禁止を犯して犬皮用いたことを見とがめられた事件に始まり、当時稲の穂が出るころに皮革類が田の周りを通ると暴風雨になるという。

農民たちは皮革類を持ち込ませないように、見張り小屋を建てるほどだった。石見屋は皮を持ち歩くことで天候を崩し、米価が上がることを画策、これを知った農民は商人、御内用方(庄屋)を打毀し、その数741件に達した。一揆の数十数万人に達したという。その後幕府は首謀者の逮捕行い、死罪10名、遠島24名の刑に処した。