35、神出鬼没の一揆に助郷の打毀し処罰し鎮圧【牛久助郷一揆】
「牛久助郷一揆」は、1804年(文化元年)に現在の茨城県牛久市で発生した一揆。1804年(文化元年)10月、牛久宿近くの女化原に大勢の百姓共が徒党を組み牛久宿問屋の麻屋治左衛門他2人の居宅を打壊し、幕府老中の青山忠裕から佐倉藩と土浦藩に対して騒動鎮圧の公儀御達が出された。女化一揆とも呼ばれるこの騒動は、打壊しの後間もなく治まり、勘定奉行所の松平兵庫頭が掛りになって徒党共の吟味を行い、翌1805年(文化2年)8月に裁許状が村々に届けられた。10月23日に、幕府老中の青山忠裕から佐倉藩主・堀田正順宛に「女化原で百姓共が集まり、騒立てているので、3人の代官と相談の上、早々取鎮めるよう」書付が渡された。そこで、「万一、百姓が手向かいする時は、飛道具(鉄砲)を使ってもよいのか」文書で問合わせたところ、「時宜によって飛道具等使っても苦しからず」と口頭で了解が得られた。早速、佐倉藩江戸屋敷から佐倉城へ連絡があり、同日午後4時から6時頃に、一番手(56人)と二番手(37人)の兵が龍ヶ崎宿へ向けて出立した。25日午後2時頃、三番手(38人)の兵を佐倉藩堺の松崎村へ派兵し、模様次第で差向ける事ができるようにした。11月1日、3人の代官から、「老中青山下野守殿から引払いの御達」があった旨、仰せ渡され、一の手と二の手は同日16時に若柴宿を引払い翌12時に佐倉へ到着、三の手は20時に松崎村を引払い翌朝2時に佐倉へ帰着した。土浦藩では、20日夕4時に手代からの要請を受け、とりあえず御徒目付の中川六郎兵衛他総勢17人を急派した。一の手は、夜9時に土浦を出発、深夜2時に牛久宿へ到着し、中川六郎兵衛が手代二人に面談した。打合せの結果、百姓共が牛久宿へ来る恐れが高く、二の手の増派が必要と判断し土浦へ連絡。21日夕4時に物頭の西川平次郎外総勢46人が土浦を出立、夜八時に牛久へ到着した。10月23日、三の手として御目付室兵右衛門以下34人が土浦を出立した。これに伴って、引続き四の手の体制整備を命じた。10月23日、郷目付に申付、女化原を探索した所、百姓共は同日昼過に退散した事を確認した。土浦領烏山村名主の父親が扱いに立入、内々解決したものであった。これに伴って、四の手の派兵は中止とし、土浦で待機することになった。10月31日夕4時に百姓共1500人~1600人で、牛久宿の麻屋治左衛門居宅が打破られた。土浦藩の二の手が到着する前の出来事であり、1の手(17人)は、手代2人の旅宿佐野屋を固めていたが、その前を百姓達が手向いなどせずに通過した。奉行所の裁許・女化騒動は、近隣の53ヶ村の村々が参加した。奉行所は、不参加の農民も参加者を引留めなかったので有罪とし2602人に過料(合計422貫文=約百両)を科した。勇七は、張札を作ってこの騒動を起し、頭取に選ばれた事から主犯と認定され、獄門(打首)と裁定された。
吉十郎は勇七に協力して騒動を起したと裁定され、桂村の兵右衛門は打壊しを主導した罪で、2人共遠島と裁定された(尚、3人共入牢中に拷問によって病死した)。勇七と吉十郎は、積金の利息で人馬を雇う案を話合うつもりで集会を開いたにもかかわらず打壊しの暴挙に至ってしまい有罪になり、桂村の兵右衛門は打壊しの発言があったと認定されて有罪にされている。女化騒動の参加村は、関宿藩・仙台藩・谷田部藩の藩領と、旗本知行地の村々であり、牛久藩と土浦藩の藩領からの参加村は無い。参加村は、領主の押さえが不十分な飛地にある村々で起こった騒動であったと考えられる。勘定奉行所の松平兵庫頭が提出した裁許状の「常州村々百姓共徒党に及候一件」は、勘定奉行所に「例類集」として保存され、維新後は新政府に引継がれ、現在は国立国会図書館に保存されている。
◎牛久騒動・1804年(文化元)10月常陸国牛久宿で起こった定助郷差村化反対(助郷役を課するよう宿駅より道中奉行に願い出されて、その指定をうける村。)の百姓一揆。女化騒動ともいう。公用人馬の増大で水戸街道牛久宿疲弊と助郷村の窮乏を招いた。牛久、荒川沖両宿の総代が助郷村の拡大を願い出たところ、幕府は役人を牛久宿に派遣、助郷拡大の対象となる村々の村役人を呼び出した。これに対して発起人小池村勇七、吉十郎らを呼びかけに、18日朝55カ村から6000人余りが女化稲荷がある女化原に結集。19~20日にかけて、人馬請負人の久野村和藤治、牛久宿問屋麻屋左衛門、画策人阿見村組頭権左衛門の居宅などを打壊しした。幕府は代官三人他を鎮圧に派遣し、鉄砲の使用を認めたが、一揆勢は近辺諸藩の鎮圧部隊の出動以前に解散。一揆の結果は10年の助郷差村となり、頭取3人は獄死し、裁可は頭取の獄門、遠島のほか、2600人余りに過料を課せられた。
*青山 忠裕は、江戸時代中期から後期の大名・老中。丹波篠山藩第4代藩主。青山家宗家10代。第2代藩主青山忠高の三男。天明5年(1785)、兄で第3代藩主の忠講が嗣子なく21歳で没したため、家督を継ぐ。忠裕は、寺社奉行、若年寄、大坂城代、京都所司代と、およそ幕閣の登竜門とされるポストを残らず勤め、文化元年(1804)に老中に起用されて30年以上勤めるなど、文化文政期の幕閣の中心人物として活躍した。老中在任中、相馬大作事件の裁判や、桑名藩、忍藩、白河藩の三方領知替えなどを担当した記録がある。文政元年(1818)、藩領の王地山に、京焼の陶工欽古堂亀祐を招いて窯を開かせる。た、内政面では地元で義民とされる市原清兵衛ら農民の直訴を受け、農民が副業として冬季に灘など摂津方面に杜氏として出稼ぎすることを認めた。天保6年(1835)に隠居し、家督を四男の忠良に譲る。翌天保7年(1836年)没した。
◎助郷(すけごう)は、日本における労働課役の一形態。江戸時代に、徳川幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のことを言う。また、夫役の対象となった村を指して言う「助郷村(すけごう むら、すけごう そん)」も、略されて「助郷」と呼ばれる場合がある。初めは臨時で行われる人馬徴発であったが、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した。人馬提供の単位となった村も、これに課した夫役と同様に「助郷」と呼び、「定助郷」「代助郷」「宿付助郷」「増助郷」「加助郷」「当分助郷」などの名があった。当初、助郷村の範囲は宿場の近隣であったが、次第に遠方にも拡大され10里以上の所もあった。村が人馬を提供できない場合、金銭で代納することになっていた。助郷務めは早朝から夜間に及ぶため、徴発された村民(農民)は宿場での前泊や後泊を余儀なくされる場合が多いなど負担が重く、それにもかかわらず、法定の報酬はわずかであった。さらに、村民の中には、助郷務めをきっかけとして宿場女郎にのめり込み、身を持ち崩す者も現れるなど、間接的な被害も大きかった。このこともあり、次第に金銭代納が一般化していった。また、人足の要員としては非合法に浮浪者や無宿者などが充てられることもあった。日光道中では、元禄9年(1696年)に常設の「定助郷」を編成した。享保10年の名称改正以前は「大助」と呼称されていた。当初は宿駅の要請で公儀御用の管理が困難であり、知行する領主の責任と差配によるものであったが、編成後は宿駅から至近距離にある村々は道中奉行による助郷証文よって勤め高に基づいて定助郷が固定化さ支配された。江戸時代末期には人馬需要の激増があり、宿とともに周辺村々に対しても、助郷役「負担」による村財政と農民生活の影響について、丸山雍成による『近世宿駅の基礎的研究』にしめされている。※「牛久助郷」常陸の国牛久宿で起こった一揆。一揆は公用馬の常陸国牛久宿で起こった定助郷差村化(江戸時代、宿駅の常備人馬が不足した際に、その補充を常時義務づけられた近隣の郷村。定助。)に反対する助郷村人の一揆だった。街道沿い、近隣の村々は行きかう街道の運搬や役人の往来、参勤交代の人馬の手配、補充など指定される「定助郷村化」が余りにも負担に疲弊し僅かの手当てでは賄えず、水戸街道牛久宿疲弊と困窮を招いたと、牛久・荒川沖両宿の総代が、他の助郷拡大の要求に百姓一揆が起きた。助郷拡大の対象の村々の村役人が集結した。発起人の小池勇七、吉十郎らが呼びかけ、55か村6000人が女化稲荷に集結し、人馬請負人の久野村藤治、牛久宿問屋麻屋左衛門、画策人阿見村組権左衛門の鎮圧部隊の出動以前に解散した。一揆の結果10年間の助郷村差村となった。