33、製紙の利権で一揆で義民の武左衛門【武左衛門一揆】

「武左衛門一揆」江戸時代後期に南予(伊予南部)の伊予吉田藩で発生した百姓一揆である。

寛政2年(1790)、吉田藩は紙を設けて御用商人の法華津屋に紙の専売権を与えたため、製紙産業に従事する領民の収入は激減した。

このため、吉田藩領の日吉村の百姓武左衛門(嘉平)が桁打ち(浄瑠璃語り)に身をやつして3年間にわたり農家を戸別訪問して大一揆を纏(まと)め上げ、彼らは法華津屋を打ち壊して専売制を改めさせようとした。一揆衆は吉田藩の宗家である宇和島藩に訴えるために伊吹八幡神社前の河原に集結し、その総勢は7500名を数えた。

一揆勢に対し、吉田藩は家老の安藤継明(儀太夫)が八幡河原に出向き、責任と解決のために一揆勢の前で切腹した。また宇和島藩は一揆勢の主張を全て認め、一揆の主導者は処罰しない事を約束した。

しかしこの約束は吉田藩の裏切りにより破棄され、吉田藩の役人は百姓らに酒を与えて「首謀者を士分に取り立てたいから教えてほしい」と計略をめぐらせて武左衛門の名前と所在を聞き出し、捕縛して斬首した。

武左衛門の出身日吉村(現在の北宇和郡鬼北町)では、武左衛門ら一揆の主導者を義農として崇敬顕彰している。安藤継明も安藤神社に祀られ、現在も同地の町民には「安藤様」として崇敬されている。

 

*武左衛門・没年:寛政6(1794)生年:生年不詳・江戸中期の義民。寛政5(1793)年伊予国(愛媛県)吉田藩に通称吉田騒動呼ばれる百姓一揆が発生した。吉田藩は特権商人と結託し,特産物である紙の専売化を計画し,紙生産者である小百姓に税を賦課し始めた。百姓たちは,吉田藩の本家である宇和島藩への越訴を実行した。

このとき,一揆勢およそ9600人を指揮し,宇和島藩との交渉に当たった頭取が武左衛門である。その結果百姓側の要求は全面的に受け入れられた。しかし,吉田藩は頭取の追及を開始し,武左衛門は捕縛され,斬首のうえ獄門とされた。後世,武左衛門に対する義民伝承が生まれた。また大正8(1919)年には,顕彰碑も建立されている。

 

*安藤継明( あんどう-つぐあき)・(1747~1793) 江戸時代中期-後期の武士。
 延享4年2月14日生まれ。伊予(いよ)(愛媛県)吉田藩家老。寛政5年紙の専売制に反対した
武左衛門一揆(いっき)(吉田騒動)のとき,2月14日農民の説得にあたり,藩の責任を負ってその場で自刃した。のち農民たちはこれをいたみ安藤邸跡に安藤神社を建立した。47歳。通称は儀太夫。

安藤儀太夫は、切腹を覚悟して家を出ました。

刀も常よりは良いものを持ち、白装束も用意しました。願いを聞いてとらすから出て参れとふれたところ、出てきたのは上大野村の勇之進であったと伝えられています。しかし、周囲から罵声がとんで話はできなかったのです。

その後、八幡河原の土手で切腹するのですが、ただちに絶命したかは不明です。吉田藩は医師をよびにやったり、大騒動をします。医師は「かような御事態では、お墨付きを頂かなければ治療にはとりかかれません。」と言います。

虫の息があったのかもしれません。切腹の後、供の者はおろおろとなり、見苦しい有様でした。鈴木作之進は命じて片づけさせます。切腹の報は、会談中であった吉田藩尾田家老と宇和島藩桜田家老に届きます。

尾田家老は、取り乱してあとを追って切腹しまいかねない状態であった。「家中は でんぐりかえりて 隼人が仰天ふだまをぬかして 火鉢を踏むやら お色も青ざめ ももたち(股引き)とりあげ うろたえ騒げば・・」と『吝嗇(りんしょく)ちょんがり』は伝えます。切腹の結果、急速に解決に向かいました。 安藤儀太夫は、解決が長引き、お取りつぶしになることを恐れて、藩を救うために切腹しました。

61年後、百姓を救うために切腹したとして民衆の神となりました。 末席家老の安藤儀太夫 は、吉田藩の評定の場で、願いは認めるべきだと強く主張し、他の家老たちに認めさせており、優れた人物であったことは間違いないことです。

 

◎宇和島藩・宗利以降の時代・宗利の時代は36年間に及び、秀宗・宗時時代の統治を踏襲して諸制度の整備充実を図った。この時代は後世の模範になったとされているが、一方で日照り、落雷、洪水、大火、土佐藩や吉田藩との境界線争いなどが相次ぎ、貞享4年(1687)頃には藩財政が逼迫して衣服や食事を粗末にし、元禄元年(1688)には5か年計画を立てるに至った。

元禄6年(1693)11月、宗利は宗贇に家督を譲って隠居した。第3代藩主宗贇は仙台藩の第3藩主伊達綱宗の三男で、宗利の婿養子である。元禄9年(1696)7月、吉田藩分知で7万石になっていた宇和島藩は高直しが行われて再度10万石となった。

ただしこれは、藩や商人で進めていた新田開発や収穫のない荒田まで加えて無理矢理10万石にしたようなものであり、しかも幕府の普請役では10万石格を負担しなければならなくなり、湯島聖堂の造営等により藩財政はますます逼迫した。

正徳元年(1711)に宗贇は死去し、三男の村年が第4代藩主となる。この時代には旱魃・飢饉・風水害が続き、藩札の発行と被災者の救済、植林・植樹から、難民の緊急雇用対策のための土木事業、倹約令、人材登用など様々な藩政改革が試みられたが、肝心の村年が享保20年(1735)5月に31歳で急死した。

第5藩主村候は村年の子で、在任60年間の長期にわたった中興の祖である。寛保3年(1743)に倹約令を発し、藩政改革に乗り出した。学問・武芸を奨励し、寛延元年(1748)に藩士と庶民共学の藩校・内徳館(のちの明倫館)を開いた。また、木蝋を藩の重要産品とし、紙を専売とした。さらに農政改革をはじめ、博打や好色の禁止、役職勤務の見直し、風俗矯正や奢侈の禁止から租税改革など大規模な藩政改革を行なった。

これらの改革は成功したが、天明の大飢饉により藩は深刻を極め、疲弊した藩では一揆村方騒動が相次ぎ、その最中の寛政6年(1794)9月に村候は死去した。なお、村候死去の前年に吉田藩で紙の専売をめぐって武左衛門一揆が起こり、一揆の解決に宇和島藩が当たっている。第6代藩主には村候の子村寿が就任し、有能な藩士の登用、倹約令と歳出抑制、商品作物栽培や養蚕等による歳入拡大、被災民救済などを中心とした藩政改革を行った。

だがこの時代にも風水害が8回、旱魃が1回と天災が相次いだ。また文化9年(1812)には萩森騒動と呼ばれる財政再建をめぐる重臣の意見の対立から刃傷事件が発生している。

さらに文化5年(1808)夏に伊能忠敬が宇和島に入って測量を行っているが、この伊能一行の接待は幕命によりかなり大仰に行われ、宇和島にかなりの負担をかけ、藩も領民も不時の出費に大いに苦しんだといわれている。

 

◎伊予吉田藩は、明暦3年(1657年)7月21日、宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗の五男・宗純が宗藩より3万石を分知されて立藩した支藩である。三河国吉田藩と区別するため伊予吉田藩と呼ばれた。藩庁として、現在の愛媛県宇和島市吉田町立間尻御殿内(旧北宇和郡吉田町)に伊予吉田陣屋が置かれた。