31、失政に一揆に藩主再興し収束【福山藩領天明6年一揆】

「福山藩領天明6年一揆」1786年(天明6)12月から翌年3月にかけて遠藤弁蔵の苛政に対して2度蜂起した全藩一揆。幕府の重臣であった阿部正倫は、(1745~1805)は弁蔵を抜擢して財政再建にあたらせた。弁蔵は国産木綿の流通統制や極度に厳しい年貢の取り立てなどを行ったために農民が疲弊した。

しかもこの年が大凶作になったために、芦田・品治郡で12月15日に蜂起すると、瞬く間に全藩一揆に拡大した。20日に藩が要求書を受理した為に一旦は鎮静化したが、江戸在住の正倫が容共を拒否したために、翌月下旬から再び藩領全域に前回を上回る激しい打毀しが始まった。

しかも2月には岡山藩に越訴もあり、正倫はやむなく農民の要求を聞き入れて弁蔵を罷免した為、ようやく一揆は収束した。

 

*阿部 正倫・延享2年(1745) - 文化2年(1805))は、江戸時代中期の大名江戸幕府の幕閣で寺社奉行老中を務めた。先代藩主・阿部正右の三男として生まれる。延享3年(1746)生まれという説もある。長兄・正表、次兄・正固の死により嫡子となった。明和4年(1767)に備中守を授かり従五位下に任ぜられた。

明和6年(1769)に正右の死去により家督を継いだ。 前代から福山藩の財政は危機的状況に陥っており、正倫は襲封と同時に財政改革に取り組むが、あまり効果は挙がらず、それどころか天候不順が重なって一層の収入不足に喘ぐことになった。

また、一揆の勃発により改革は後退し、結果、更に厳しい財政緊縮を強いられることになった。そこで、それまで改革の中核に据えていた叔父の安藤主馬に代えて、叩き上げの遠藤弁蔵に財政再建を担当させ、収入の増加に成功するが、遠藤の施策は苛烈を極め、領民の恨みを買うことになった。

しかも、福山藩は「鬼より怖い」といわれた「上下銀」(天領の貸金)の借入にも手を染めており、藩財政はより深刻な状況へと陥っていった。しかし江戸に在府した正倫は、その実情を帰国するまで理解することはできなかった。この上下銀の返済に窮した正倫は、田沼意次への働きかけや寺社奉行の地位を利用して、返済の凍結を成功させ、最終的には借入の担当者(佐藤新四郎)を藩内から追放することで決着を図った。

なお、遠藤弁蔵は後述する天明大一揆の責任を負わされ、獄死する。正倫は幕政では、安永3年(1774年)に奏者番に就任し、同年寺社奉行を兼任、天明7年(1787)に老中に抜擢されるなど、順調な出世街道を歩んでいた。

ところが、老中就任を祝う臨時税を領民に課そうとしたところ、藩領全域を巻き込んだ藩史上最大の一揆(天明大一揆)が勃発する。

また、松平定信を中心とした改革派の攻勢により、失脚した田沼派に属した正倫は立場を失い、病を理由に天明8年(1788)、わずか11ヶ月の任期で老中を辞任する。その後は、藩政の建て直しに専念するため福山に帰国するが、藩内の綱紀の乱れは正倫の想像を超えるもので、正倫は失望に陥る。

それでも藩士教育のため、福山城西堀端に藩校の(福山)弘道館を創設するなど、士風の振興を図ろうとしたが、あまり効果は挙がらなかった。

また、財政再建に取り組んで、藩主親政による徹底した経費削減や有力商人への接近、農政改革など矢継早に政策を実施していった。その結果、財政再建には至らなかったものの、一揆を抑えることには成功した。

 

※福山藩主阿部正倫が藩政の財政再建に遠藤弁蔵を抜擢、その任を命じた。弁蔵の再建策は国産木綿の厳しい取り立てに疲弊した上に、この年の大凶作で芦田・品治郡で農民の不満は爆発、蜂起すると瞬く間に全藩に拡大した。

これに驚いた藩は農民の要求を受け入れたために鎮静化したが、江戸在宅の正倫が受け入れ拒否に、前回以上の打毀しが始まり、越訴もあって弁蔵を罷免し終息したが、その後遠藤弁蔵は天明の大一揆が勃発しその責任を負わされ、獄死した。