24、村民に助郷の負担で一揆拡大で取り下げ【中山道伝馬騒動】

「中山道伝馬騒動」(助郷一揆)(なかせんどう てんまそうどう)とは、江戸時代の一揆。1764(明和元年)閏12月下旬から翌年1月にかけて主要街道の一つであった中山道沿いで発生した一揆。騒動が武蔵国を中心に上野国信濃国と広範囲に及んだこと、領主側の立場でもある村役人が多数参画したこと、最終的には一揆の原因となった要求を幕府側が取り下げたことから、幕府の威信が低下する一因となった。

後北条氏滅亡したのち、徳川家康が江戸入城した。江戸時代には幕府により中山道をはじめとする東海道、日光街道、奥州街道、甲州街道による五街道の整備が進められ、公用のための伝馬制が整えられていた。

街道添いには宿場町が設置された。宿駅は常備人馬で継ぎ送りをするが、支障が出る場合には宿駅近郊の郷村が補助的に人馬の提供を行う、その課役制度である助郷制度が設定された。

助郷制度の成立は、幕府が寛永14年(1637年)東海道、美濃路などの宿駅に助馬村の設置を命じ、元禄2年(1689年)より各宿の助郷の有無とその現状の調査をはじめ、中山道は元禄6年に調査した。その後、幕府は元7年(1694年)には東海道・中山道の宿駅近郊の村々に助郷制を定め、「助郷帳(証文)」を交付した。

また、中山道沿いは幕府直轄領が多く、騒動の中心となった北武地域の百姓には本年貢のほか水利普請や鷹場管理などの公用負担が存在した。幕府は増助郷政策を行い宝暦天明年間には取り割り当てが増加し百姓負担が増加していた。幕府による増助郷は一方で助郷の専業者や助郷役の代勤(雇替え)が浸透するなど農村社会の弛緩を招き、また助郷をめぐり定助郷村と非定助郷村間の対立も発生していた。

明和元年2月には大宮上尾桶川三宿の惣代や川田谷村名主高橋甚左衛門らが助郷村の拡大を訴願している。明和元年(1764)には朝鮮通信使が来日し、幕府は使節の通過する東海道・中山道(板橋宿から和田宿に至る28宿)沿いの諸宿に対して村高100高につき金三両一分余の国役金納入を命じられ、さらに12月に翌年の日光東照宮150回忌に備えた人足と馬の提供を求めようと各村役人に出頭を求める増助郷策が続いた。

助郷村では幕府の増助郷に反対する百姓の組織化が起こり、村役人の多くが負担に反発し出頭を断わると、村役人に賛同する農民が熊谷宿鴻巣宿桶川宿などに集結して蜂起、幕府側に抵抗した。明和元年(1764年)12月から翌2年正月に、騒動は瞬く間に街道沿いに広がり、武蔵・上野・信濃および下野の一部にわたって発生し、20万人が参加したといわれる伝馬大騒動が起こった。

10万人とも30万人とも伝えられる規模に拡大、江戸市中へ飛び火することを恐れた幕府側は、助郷の追加負担を取り下げ沈静化を図った。しかし治安は回復せず、年末から翌年の正月にかけて暴徒が街道沿いの富農を襲撃する打ちこわしを起こし、中山道の機能がマヒする事態となった。

幕府側は、多数の村役人を拘束し処分した。特に関村(現在の埼玉県美里町)の名主遠藤兵内を首謀者として獄門に処している。その後、遠藤兵内は地元民から義民として祭られている。

 

*遠藤兵内( えんどう-ひょうない)1721~1721 江戸時代中期の一揆(いっき)指導者。享保(きょうほう)6年生まれ。武蔵(むさし)児玉郡関村(埼玉県美里町)の名主。

明和元年(1764),幕府の助郷役増加計画に反対して武蔵を中心におきた百姓一揆,伝馬(天狗)騒動を指導。要求はみとめられたが,首謀者として3年2月13日獄門となる。46歳。通称は関村兵内。名は「へいない」とも。

 

◎助郷は、日本における労働課役の一形態。江戸時代に、徳川幕府が諸街道宿場の保護、および、人足の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のことを言う。また、夫役の対象となった村を指して言う「助郷村(すけごう むら、すけごう そん)」も、略されて「助郷」と呼ばれる場合がある。

初めは臨時で行われる人馬徴発であったが、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した。人馬提供の単位となった村も、これに課した夫役と同様に「助郷」と呼び、「定助郷」「代助郷」「宿付助郷」「増助郷」「加助郷」「当分助郷」などの名があった。

当初、助郷村の範囲は宿場の近隣であったが、次第に遠方にも拡大され10以上の所もあった。村が人馬を提供できない場合、金銭で代納することになっていた。助郷務めは早朝から夜間に及ぶため、徴発された村民(農民)は宿場での前泊や後泊を余儀なくされる場合が多いなど負担が重く、それにもかかわらず、法定の報酬はわずかであった。

さらに、村民の中には、助郷務めをきっかけとして宿場女郎にのめり込み、身を持ち崩す者も現れるなど、間接的な被害も大きかった。このこともあり、次第に金銭代納が一般化していった。また、人足の要員としては非合法に浮浪者無宿者などが充てられることもあった。日光道中では、元禄9年(1696年)に常設の「定助郷」を編成した。享保10年の名称改正以前は「大助」と呼称されていた。

当初は宿駅の要請で公儀御用の管理が困難であり、知行する領主の責任と差配によるものであったが、編成後は宿駅から至近距離にある村々は道中奉行による助郷証文よって勤め高に基づいて定助郷が固定化さ支配された。

江戸時代末期には人馬需要の激増があり、宿とともに周辺村々に対しても、助郷役「負担」による村財政と農民生活の影響について、丸山雍成による『近世宿駅の基礎的研究』にしめされている。江戸後期の助郷役の負担は、中山道の宿駅でもみられ、宿駅や助雛附の輸送量と通行者が増加による繁栄した一方で、無賃、または低賃銭の伝馬役などの負担があり、その不足分を補填のため助郷村の財政が窮乏し、「幕府や藩に窮状を訴えて減免を願い、宿駅と助郷村の紛争も相次いだ」という。明治5年(1872)に、助郷制度は廃止された

 

※「中山道傳馬騒動(助郷一揆)江戸時代の一揆。1764年(明和元年)主要街道、中山道沿いに起きた一揆。騒動は武蔵国を中心に上野国、信濃国など広範囲に及んだ。主要街道沿いに宿場が設置されそれに伴って、伝馬制が整備され往来の馬の乗り継ぎ機能を持たせ、役人が管理し近隣の村々百姓に常備馬の手配から管理をさせ、僅かな賃金で近隣の村に課役の費用の負担に耐え切れず、村役人に賛同する農民が熊谷宿、鴻巣宿、桶川宿などに集結し蜂起、幕府側に抵抗した。

騒動は瞬く間に周辺に広まって武蔵、上野、信濃及び下野の一部まで波及し、20万人の伝馬大騒動が起こった。幕府側追加負担を取り下げて鎮静化を図った。幕府側はこの騒動に際し、首謀者として名主遠藤兵内が獄門に処せられた。遠藤兵内は義民として義民として祀られている。