22、一揆で藩役人の腐敗発覚【上田騒動】

「上田騒動」(農民一揆)(うえだそうどう)とは、信濃国上田藩で発生した農民一揆である。宝暦11年(1761年)、上田藩(藩主松平忠順)の農民約13000人が上田城へ押し掛けた。  この一揆での願いは、年貢の軽減、農民を人足として使う事をやめる、中村弥左衛門をはじめとする郡奉行(検見を行う役人)の不正の取り締まりであった。この郡奉行は、その年から年貢の徴収方法を従来の定免法から古来の検見法に戻し、農民を踏み台にして得た年貢で立身出世を謀ろうとした、とされている。

一揆に参加した農民は、夫神村、田沢村、当郷村、村松郷、入奈良本村、下奈良本村(以上現・長野県小県郡青木村)、川西、諏訪部、別所、福田、舞田(以上現・上田市)、千曲川東岸の農民がほとんどであった。

12月11日、諏訪部の河原に集合した農民たちは夜明けとともに上田城下になだれ込んだが、彼らが入城したとき藩主は江戸に出府中で、家老の岡部九郎兵衛が代わりに願いを聞いた。岡部は農民達を前にして、「もし願いが聞き届けられなかった場合は、農民たちが見ている前で切腹する覚悟だ」と話したと言われている。その翌日に、農民たちは城下町で打ち壊しを行ったほか、小牧村(現・上田市)の庄屋が役人と結託しているとして、庄屋の家を襲撃した。

宝暦12年(1762)1月9日、上田城に呼び出された農民は岡部から、不正を行っていた郡奉行達を罷免したことと、たとえいかなる事情があっても、騒動や直訴御定法(違法行為)なので、騒動の首謀者を発見し、取り調べると言い渡した。

農民たちにすれば、自分達の要求の大半が受け入れられたため、一揆は成功したことになったが、首謀者たちは役人による追及を受けることになった。呼び出しから10日後、首謀者が夫神村の農民・清水半平中沢浅之丞、庄屋の西戸太郎兵衛であることが判明。

宝暦13年(1763)3月2日に半平(60歳)と浅之丞(39歳)は死罪、太郎兵衛は永牢となった。なお、太郎兵衛は20年後の天明3年(1783)に出獄し、寛政2年(1790)に84歳で死去した

 

松平 忠順(まつだいら ただより)は、信濃上田藩の第3代藩主。江戸幕府奏者番寺社奉行若年寄。伊賀守系藤井松平家5代。享保11年(1726年)11月22日、第2代藩主・松平忠愛の長男として江戸で生まれる。

寛保元年(1741)に従五位下・内膳正に叙位・任官する。寛延2年(1749)8月2日、父の隠居家督を譲られ、伊賀守に遷任する。父と違って有能で、儒学を基礎とした積極的な藩政刷新を目指したが、父の時代にすでに藩財政は破綻していたため、宝暦3年(1753)に半知上納を行ない、宝暦9年(1759)に倹約令を出している。

しかし民政においては、かなり質の悪い役人が取り仕切って年貢増徴を行なっていたため、宝暦11年(1761)12月に百姓一揆(上田騒動)が起こり、藩は百姓の年貢減免・役人罷免要求を認めざるを得なくなった。宝暦13年(1763)に奏者番に任じられ、明和元年(1764)に寺社奉行、安永4年(1775)に若年寄上席などを歴任した。天明3年(1783年2月8日、江戸で死去した。享年58。跡を長男の忠済が継いだ。

 

「上田騒動(農民一揆)は農民一揆が起こり藩政の不正発覚から発生した。郡奉行中村弥左衛門の不正の取り締まりで、この役人年貢の微収方法で従来の定免法から検見法に戻し、農民を踏み台に立身出世を目論みに露見した。

これを知った農民は上田藩の近隣近在の村々から諏訪部の河原に集結し13000人の農民は上田城になだれ込み、藩主江戸にて不在、家老の岡部九朗兵衛は藩主にとりなす約束でその場は収めたが百姓一揆は庄屋など打ち毀し襲撃した。後日上田城に呼び出され、沙汰が出された。不正の郡奉行は罷免、一揆の首謀者の半平、浅之丞は死罪、太郎兵衛は永牢が言い渡された。農民の言い分は聞き入れられた。