21、藩政の腐敗に一揆で駕籠訴で改易【郡上藩領宝暦年間一揆】

「郡上藩領宝暦年間一揆」美濃国郡上藩金森氏の年貢徴収法改正に反対した一揆。金森騒動とも郡上宝暦騒動ともう。

1754年(宝暦4)地方功者黒崎左一右衛門を登用して定免を検見取に改め年貢増微を試みたのに対して、百姓は城下町を強訴し藩は一旦増微をあきらめたが、翌年美濃笠松代青木次郎九朗が介入し検見取を強要。

再び百姓は南宮神社などに集結、江戸藩邸訴願などの行動に出たが効果なく、切立村喜四郎は、前谷村定次郎らが駕籠訴を決行した。長期間に及び一揆により百姓の間では立者と寝者の対立が激化、金森氏改易の一因となった。西気良村の甚助処刑事件や箱訴の契機となった歩岐島村乱闘事件が発生した。

折から郡上藩預かり地、越後国石徹白山中居神社の社人間の対立で、藩が石徹白騒動が起こり、神頭職の杉本左近らも箱訴を決行。二つの箱訴によって幕府評定所は審議を開始した。1758年金森氏改易、百姓側獄門4人、死罪10人などによって足掛け5年にわたる一揆は決着したが、老中本多氏らの処分、評定所への田沼意次出座、講釈師馬場文耕の拷問など幕府に大きな影響を与えた。

 

◎郡上藩は、江戸時代美濃国(現在の岐阜県郡上市八幡町)に存在し郡上郡の大半と越前国の一部を統治した。藩庁は八幡城。八幡藩(はちまんはん)とも。郡上は戦国時代織田信長豊臣氏の家臣であった遠藤氏、次いで稲葉氏の支配下にあった。

 

関ヶ原の戦いで稲葉氏が豊後臼杵藩に移された後、遠藤氏も関ヶ原で東軍に与して戦功を挙げたことから、遠藤慶隆は2万7000石を与えられて旧領復帰を許され、ここに郡上藩が立藩した。第3代藩主・遠藤常友は弟の遠藤常昭に200石、同じく遠藤常紀に1000石を分与したため、郡上藩は2万4000石となった。

そして寛文7年(1667)に城を大改修したことから、遠藤氏は城主格から正式な城主として遇されることとなった。ところが第4代藩主・遠藤常春の時代である延宝5年(1677)から百姓一揆と家中騒動が勃発する。常春はこれを天和3年(1683)に一応鎮めたが、元禄2年(1689)3月24日に謎の死を遂げた。その後を継いだ遠藤常久は元禄5年(1692)3月29日に7歳で家臣に毒殺された。嗣子もおらず、本来であれば改易となるところだが藩祖の功績を賞して存続が許され、遠藤氏は一族の遠藤胤親が同年5月に常陸下野両国内で1万石(三上藩)を与えられて移封となった。

同年11月、井上正任が常陸笠間藩から5万石で入った。しかし第2代藩主・井上正岑のときである元禄10年(1697)6月、丹波亀山藩に移封された。その後に出羽上山藩から金森氏が入った。ところが第2代藩主・金森頼錦の時代である宝暦4年(1754)から4年の長きにわたって年貢増徴に反対する百姓一揆が起こる(いわゆる郡上一揆)。

さらには石徹白騒動白山中居神社の指導権をめぐっての神主派・神頭職派の争い)と続き、頼錦は宝暦8年(1758)12月に所領を没収されて改易となり、盛岡藩へ身柄を預けられた。その後、丹後宮津藩から青山幸道が4万8000石で入る。幕末期の藩主・青山幸哉は日本で最初にメートル法を紹介したとされている『西洋度量考』の編者として知られている。

最後の藩主・青山幸宜戊辰戦争のとき、新政府に与したが、家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉は幕府側に味方するなど、藩は2つに分かれて混乱した。明治4年(1871)の廃藩置県で郡上藩は廃されて郡上県となり、同年11月に岐阜県と福井県に分割され編入された。

 

金森 頼錦(かなもり よりかね)は、江戸時代美濃八幡藩の第2代藩主。金森可寛の長男。

父の可寛は初代美濃八幡藩主・金森頼時の嫡子であったが、享保13年(1728)に37歳で死去したため、頼錦は享保14年(1729)に跡継ぎとなり、従五位下若狭守に叙任した。

享保21年(1736)の祖父の死去により家督を継ぎ、兵部少輔に改めた。延享4年(1747)奏者番に任じられ、藩政では目安箱を設置したり、天守に天文台を建設するなどの施策を行った。

また、先人の事跡をまとめた『白雲集』を編纂するなど、文化人としても優れていた。頼錦の任じられた奏者番は、幕閣の出世コースの始まりであり、さらなる出世を目指すためには相応の出費が必要であった。頼錦は藩の収入増加を図るため、宝暦4年(1754)、年貢の税法を検見法に改めようとした。

結果、これに反対する百姓によって一揆(郡上一揆)が勃発した。さらに神社の主導権をめぐっての石徹白騒動まで起こって藩内は大混乱し、この騒動は宝暦8年(1758)12月25日、頼錦が幕命によって改易され、陸奥盛岡藩南部利雄に預けられるまで続いた。宝暦13年(1763年)6月6日死去、享年51。

 

「馬場文耕」江戸中期の講釈師、下級幕臣から浪人し講釈師になる。武家に出入りし家政を批判する一方、江戸の釆女ケ原で小屋掛けで演じた。毒舌家で、世話物講談の分野で開拓した。1758年(宝暦8)当時審査中の美濃郡上八幡の「金森騒動」「郡上藩領宝暦年間一揆」を講じた上、小冊子「平仮名森の雫」を配布して召し取られた。

 

◎「駕籠訴」要職者が通行するときに、訴状を提出すること。越訴一形態。原則として訴状は受け取らない。関係役所に正規に手続きをするように、申し渡して退去をするの通例。退去せず執拗に訴状の受理を願い場合は、訴人の所属する領主などに身柄を引き渡した。

登城途中の老中への駕籠訴の場合は、訴状は徒頭が受け取り駕籠の中で老中が一覧し、大した用件でなければ駕籠脇の者に渡し屋敷の公用人に届けさせ、訴人は老中の屋敷に連行した。公用方は訴状の趣旨を要約し書き取り作成し、江戸城の老中に届けさせた。駕籠訴は刑罰の対象だが、「急度叱」白州で叱る程度である。

 

◎「立百姓・寝百姓」郡上藩領宝暦年間一揆で、一揆に立ち上がった人「立百姓」、一揆に加わらなかった人「寝百姓」の区別、史料上、立者・寝者、立百姓・寝百姓、立水呑・寝立水呑、立村などがある。両者に属さない人別帳で分類された。団結目的貫徹には全農農民の参加に寝者の説得が行われたという。

 

「郡上藩領宝暦年間一揆」は一揆史上最も「典型的一揆」だった。郡上藩の年貢徴収法で農民と対立、一揆が起こったが検見法という仕法で少しでも税収を増やしたい藩政と苦しい暮らしに軽減を願う農民との5年にも及ぶ戦いであった。

訴状にもあらゆる手法を使って訴え続け、江戸藩邸訴願を出しても効果なく、駕籠訴を行っても効き目がなく、対立が激化し甚助処刑事件の箱訴が契機となって歩岐島乱闘事件が発生し、折から郡上藩預かり地の、石徹白山中居神社の紛争らも箱訴を決行。この二つの箱訴によって幕府評定所は審議を開始、藩主金森は改易、農民側死罪10人など、老中本多氏処分され、幕府田沼意次まで出座の波及で、一揆は終結した。