16、飢餓と家臣内紛で一揆で役職処罰「久万山一揆

「久万山一揆」1741年(寛保元年)伊予国松山藩久万山で発生した一揆。3月、久万山の下坂・北坂の農民が紙専売制に反対して松山に出訴を企てたが藩に慰撫にされた。

7月、口坂も加えて久万山三坂の農民が3000人蜂起し、大洲藩城下近くに逃散、同藩主に強訴しょうとした。

原因は凶作による米価の高騰に、換金作物であるお茶価格の落下にあった。松山藩は久万山の大宝寺住職斉秀に仲裁を依頼した。

その結果藩は譲歩し、茶税の増微中止、差上米の免除、小物成りの五割増の中止、紙専売仕法は従来通りとし、8月農民は帰村した。家老奥平貞国らは処罰された。

 

◎「松山藩」伊予国温泉郡松山を藩庁とする親藩中藩。近世初期、小早川隆景、福島正則の伊予支配後、1596年(文禄4)加藤嘉明が6万石で伊予郡正木城に入った。関が原合戦後、嘉明は20万石に加増され、松山城を築いたが、1627年(寛永4)陸奥国会津に入封、1634年忠知は嗣子がなく死没してから徐封された。

翌年伊勢国桑名から孫松平定行(1587~1668)が入封、維新まで15代に渡って久松氏の支配が続いた。定行は松山城を改修し殖産興業に務めて、多くの国産品を創始し、藩政の基盤を築いた。1663年(寛文3)以降干ばつなどで藩財政が破綻。奉行高内又七は春免を施行して税制を確立した。

享保飢饉では義農作兵衛の餓死など領民に被害が大で、1741年(寛保元年)には久万山一揆が発生、「松山騒動」と言われるまでお家騒動も起こった。

 

「義農作兵衛」(1688~1732)享保の飢餓(1732)に際し、麦種一斗を枕に、種の重要性を説きつつ餓死した篤農家。松山藩領筒井村の水呑百姓作平の長男。精励して33aの自作地15aの小作地を耕作。

飢餓で松山は5705人の餓死者を出し、藩主が謹慎を命じられた。作兵衛餓死後、筒井村庄屋が上申書を提出、藩は作兵衛の基碑を建立。愛媛県伊予郡松前町筒井公園に「義農之墓」の碑文がある。義農神社は作兵衛を祀る。

 

「奥平 貞継」元禄16年(1703年) - 安永7年(1778年))は、伊予松山藩家老奥平藤左衛門家4代当主。父は松平政定。養父は奥平貞虎。兄弟は松平忠暁、小出英都。子は奥平貞幹、水野忠徳。通称次郎八、酒之丞、弾正、左門、藤左衛門。

元禄16年(1703年)9月27日、300俵の幕府旗本・松平杢之助政定の次男として江戸に生まれる。父政定は、2000石の旗本・松平織部定之の七男で、母が松山藩の家老奥平貞由の娘であった。宝永7年(1710)祖母の実家、伊予松山藩家老である奥平藤左衛門家の家督と、養父の遺禄の内2500石を相続する。

正徳4年(1714)与力を預けられ組頭となる。享保3年(1718)家老職見習。享保5年(1720)家老となり、同年300石の加増を受ける。享保14年(1729)知行3000石となる。享保年間より、藩政を巡って、同僚の家老奥平三郎兵衛貞国(久兵衛)と二派に別れて争う。

両奥平家は、藤左衛門家が、初代藩主松平定行の生母の弟貞由の子孫であるのに対し、三郎兵衛家は、貞由の叔父貞政の子孫という、本来一族の関係であった。享保16年(1731年)貞国が隠居を命じられ藩政を退いたことで、一旦は勝利を収めた。享保17年(1732年)の享保の大飢饉で、最多の3500人にも上る餓死者を出してしまった松山藩は幕府の不興を買い、同年12月に藩主松平定英へ裁許不行届として差控の処分を受ける。

翌享保18年(1733年)4月に差控を解かれた藩主定英は、5月に急死。新たに藩主となった定喬は手始めに、隠居の身であった奥平貞国(久兵衛)に家老再勤を命じ、貞継ら飢饉当時の藩政指導者の処分を行った。

そこでの貞継は、領内の困窮を尻目に大坂で遊興に耽っていたとして、家老を罷免され、久万山に蟄居を命じられる。享保19年(1734年)嫡男貞幹が新知1500石で家名存続を許された。享保21年(1736年)4月蟄居処分を解かれ大坂表に立ち退く。寛保元年(1741年)8月久万山地域の農民3000人が、紙専売仕法反対等を訴え一揆を起こし大洲藩逃散する事件が発生。

今度は久兵衛貞国が、その責任を問われ遠島となり失脚。同年12月に大坂表より召喚された貞継は、翌寛保2年(1742年)家老職に復帰。寛保3年(1743年)知行3000石を賜り、軍用方並支配方用係となる。寛延3年(1750年)500石の加増を受ける。

宝暦3年(1753年)病により家老を辞職して隠居する。安永2年(1773年)隠居料50人扶持を賜り、左門と名乗る。安永7年(1778年)6月11日死去。享年71。

 

※久万山一揆の発端は享保の飢餓で松山藩の農民は多数の死者に疲弊し際、筒井村の水呑百姓、麦種の重要性を説きつつ餓死した。飢饉で松山では5705人の餓死者を出した。警鐘を鳴らした作兵衛の聞き入れず多数の餓死者を出した藩主は謹慎を申し付けられた。

藩政は奥平家老両家の主導権争いに勝利した、奥平貞国は田畑に代わる租税として紙専売制導入に対して、百姓は立ち上がり口坂・北坂・下坂の農民3000人立ち上がった。藩内では家老奥平氏両家の主導権争いで奥平貞継は敗れ、奥平貞国側が勝利した。貞国は租税の紙専売制に農民の反発に3000人の一揆が起こり、この蜂起で、一揆で責任を問われ、遠島を申し付けられ失脚した。