15,失政に転封に不満に一揆が鎮圧【姫路藩領寛延2年一揆】

「姫路藩領寛延2年一揆」1749年(寛延2)に播磨国姫路藩(松平氏15万石)で起こった全藩一揆。原因は藩の失政と大庄屋制の弊害にあった。

前年末に藩主松平明矩(1709~1748)が死去し、その直後に年貢延納を求めて動きがあった。

幼少の松平朝矩の相続と上野国前橋藩への転封が決まると、正月16日から領内各地で連鎖反応的な打ちこわしが発生した。藩当局は鎮圧に失敗し城門を閉ざした。19組の大庄屋と庄屋、御用商人など60軒が打毀しになった。農民は一挙に一揆に発展、藩内は混乱に陥った。

事態を重く見た幕府の指示で、大坂城代と大坂町奉行が一揆参加者の取り締まりを行い、新藩主の酒井氏によって200名以上の処罰がされた。首謀者には厳しい磔刑に処した。事態はその後鎮静化したが、犠牲になった滑甚兵衛は後世に義民として顕彰され、また「播姫太平記」などの一揆物語が作られた。

 

*松平 明矩(まつだいら あきのり)は、江戸時代中期の大名。直基系越前松平家4代。正徳3年(1713年)、陸奥白河藩支藩の白河新田藩主・松平知清の長男として生まれる。享保6年(1721)の父の死に伴い新田藩主となるが、本家白河藩に子がいないため、享保12年(1727)に伯父にあたる松平基知の養子となり、享保14年(1729)閏9月2日、白河藩を相続する。知清または基知から偏諱を授かってこの頃までは義知(よしちか、初名)と名乗っていたが、基知の死後にその1字を憚ったのか、のちにを明矩に改めている。

寛保元年(1741)11月1日、姫路に国替となった。延享2年(1745)、9代将軍徳川家重が将軍に就くと、直後に来日した朝鮮通信使の接待役を命じられたが、費用がないため藩領に臨時の御用金を課した結果、大一揆が発生し、その最中の寛延元年(1748年)に36歳の壮年で死去した。家督は幼少の長男・朝矩が継いだ。

 

滑甚兵衛・没年:寛延3年(1750)生年:生年不詳・江戸中期の播磨国(兵庫県)姫路藩寛延大一揆の指導者。飾西郡古知之庄(夢前町)の人。住居地の小字により滑甚兵衛と呼ばれた。一揆のとき,40~42歳で持高11石余。

寛延2(1749)年姫路藩松平氏の治政下,凶作による年貢の延納要求や大庄屋,庄屋の不正糾弾のため農民が蜂起。単発的な強訴や打ちこわしののち,1月28日飾西郡前之庄組大庄屋打ちこわしを幕開けとして、藩内の平野部,海岸部に波及し、2月3日まで打ちこわしが展開した。甚兵衛は発端となった打ちこわしを巧みに組織し、一揆後,甚兵衛宅を「なめら会所」として地域自治が成立。首謀者として磔刑に処せられ、のち義民として祭られた。

 

◎姫路藩・1741に榊原氏に代わって再び入封した越前松平家も、その8年後には松平朝矩の幼少を理由に上野前橋に転封され、かわって老中首座酒井忠恭が前橋から入封する。

姫路藩の酒井氏は徳川家康の重臣酒井正親重忠を祖とし、大老酒井忠世酒井忠清を出した酒井雅楽頭家の宗家である。

老中を務めていた忠恭の前橋領は居城が侵食されるほどの大規模な水害が多発する難所であり、加えて酒井家という格式を維持する費用、幕閣での勤めにかかる費用、放漫な財政運用などにより酒井家は財政が破綻していたため、忠恭は「同石高ながら実入りがいい」と聞いていた姫路への転封をかねてより目論んでいた。

実際は、姫路領では前年に大旱魃が起き、そこに重税と転封の噂が重なり、寛延の百姓一揆と呼ばれる大規模な百姓一揆が起こっていたが、酒井家は気がついていなかった。

それでも転封は実現したが、その年の夏に姫路領内を2度の台風が遅い、水害が発生し大変な損害を出し、転封費用も相まって財政はさらに悪化することとなった。

ともあれ酒井家以降、姫路藩は頻繁な転封がなくなり、ようやく藩主家が安定した。歴代の姫路藩主は前橋時代同様にしばしば老中、大老を務め、幕政に重きを成した。

 

「姫路藩領寛延2年一揆」1749年(寛延2)播磨国姫路藩(松平15万石)で起こった全藩一揆。原因は旧藩主死去の為に、幼少の新藩主松平朝矩になったが、同時に藩政で年貢の厳しい取り立ての動きがあって、幼少の朝矩に転封が決まった。

直後から百姓へ年貢の取り立てと、連続打ち毀しが発生し、19組の大庄屋と、50軒の庄屋、御用商人の打ち毀しになった。農民の反発で一挙蜂起、一揆になり混乱になった。その後幕府の指示で一斉取り締まり行い200名以上処罰されたが、首謀者の滑甚兵衛は磔(はりつけ)に処せられた。

一揆の犠牲者として滑甚兵衛は後々世にまで地域の偉人として顕彰されている。藩政には行き過ぎた年貢の負担や強硬取り立ては後々問題を起こす要因になる一つの例である。