13、一揆絡みの家騒動【加賀藩領寛文7年検地反対一揆】

「加賀藩領寛文7年反対一揆」浦野一揆ともいう。1667年(寛文7年)加賀藩重臣長連頼の普代家臣浦野孫右衛門らは起こした検地藩に賛同した十村(大庄屋)らが藩庁に越訴した。その罪で、久江村園田道閑ら首謀者三名が磔刑、獄門、一名獄死、二名国外追放など多くの犠牲者を出した。

これは、検地の施行の是非を回り、長家の家臣浦野孫右衛門一党が主家長家にたいして反逆したお家騒動と、それに一味した道閑らが藩庁に直訴する代表的越訴型一揆の二面性を持っている特異な事件であった。

しかしこれを機に長家領に許されていた地方知行制が廃止され、やがて改作法もこの地に実施されて加賀藩政が確立した。

 

*長 連頼(ちょう つらより)は、江戸時代初期の武士加賀藩家老長連龍の次男。長氏23代当主。兄に長好連。室は香集院(不破光政娘)。子に長元連。 慶長9年(1604年)、前田氏の家臣・長連龍の次男として誕生する。

元和5年(1619)に父が死去し、すでに兄も死去していたため、家督と能登鹿島半郡ほか加賀国能登国内、3万3千石を継ぐ。鹿島半郡は、織田信長から父の連龍が受領した地で、前田氏の家臣となってからも、本来なら他の家臣が分散して知行地を持っているのとは別格に、金沢のほかにも知行地の鹿島郡田鶴浜にも本拠を持っており、藩主もこれに手をつけることができなかった。そんな中、在地の家臣の浦野孫右衛門信里と金沢の家臣の加藤采女の対立があり、浦野が新田開発をし、それを私有しているという噂が流れた。

そこで寛文5年(1665)2月に新田の検地を実施しようとしたが、これを加藤采女派の策謀と思った浦野派は、同年3月27日、検地反対の旨の書面「検地御詫」を連頼の子息の元連を仲介して提出した。

しかし、9月には検地が一部行われ、浦野は元連と連携して、十村頭園田道閑ら有力農民を扇動して検地の阻止に出て、検地をすることができなくなった。これを重く見た連頼は、単独での処理はできないと判断し、寛文7年(1667)2月15日、本多政長横山忠次前田対馬奥村因幡今枝民部ら藩の重臣を通じて、浦野派の罪状を書いた覚書を加賀藩に提出した。

藩主・前田綱紀は、鹿島半郡を直接統治する機会と考え、介入し浦野孫右衛門、兵庫父子ら一派を逮捕。このことを江戸幕府保科正之(綱紀の舅)に相談し、寛文7年(1667年)に浦野父子ら一派の首謀者は切腹、切腹した者の男子は幼児であっても死刑に処された。協力した有力農民も一味徒党として捕らえられ、園田は磔、3人の子は斬首刑となるなど、軒並み死刑となった。

事件は長家の家中取り締まり不行き届となり罪は子の元連にもおよび、剃髪のうえ蟄居となり、その子の千松(のちの長尚連)が後継者となるが、検地の場合は藩の命令に従うこと、諸役人の任免は藩の承認を得ることなどの条件がつけられた。この事件を浦野事件(浦野騒動)という。

 

*「園田道灌」江戸時代の義民。加賀藩長家領鹿島半郡の十村頭の大庄屋の代表。長連頼の普代家臣が起こした検地反対一揆に賛同し藩庁に出訴した罪で、磔刑、息子三人は打ち首となった。  その後検地反対の農民の犠牲になった道灌に村民の思慕が集まり「おいたわしや、とこやちの道灌様は、七十五村の身代わりに」臼籾歌に歌う労働化に成ったほどの、祠が奉られている。

 

※加賀藩の重臣の長氏は能登国3万3千石の領主の普代家臣浦野孫右衛門の起こした「検地反対」運動を展開した。主君を裏切ってまで検地反対をしたかについては、年貢の負担増に村民の暮らしを守るために賛同者を募り説明したのだろう。

浦野孫右衛門の検地反対に賛同した十村頭の大庄屋園田道灌が百姓代表として越訴を加賀藩に訴え出て、表面化、長家の中で二派に分かれた「浦野騒動」お家騒動に浦野孫右衛門一派に園田庄屋の思いが一致し「検地反対一揆」が発生したと思われる。