10、過剰検地に財政難で直訴で改易【沼田藩領天和元年一揆】

「沼田藩領天和元年一揆」1681年(天和元年)上野国沼田藩領で起きた一揆。同年、江戸両国橋用用材を請け負った藩主真田信利(信直)が期限内未納入を理由に改易された。原因は利根郡月夜野村の茂左衛門が領主の苛政を将軍徳川綱吉に直訴した為と思われる。直訴状の写しが各地に流布している。松代と上田を支配した真田信之が1658年(万治元年)死去すると、松代城主に果たせなかった信利が松代から自立し、領主権力強化を図り、家臣団整理して表高3万石を14万石にした石高制検地、年貢徴収法の強化などの藩政改革を進めた。領民の負担は増加し、前年度は凶作に、四割の領民は飢えに苦しむとまで言われた。百姓は疲弊し、一揆が起こったとされている。詳しい実態は不明である。藩主真田の改易の理由はその経緯は、延宝8(1680)年、信直は両国橋改修の用材の調達を、材木商大和屋から請負った。しかし、折からの台風により利根川片品川が氾濫して用材は流出し、翌天和元年(1681)10月の納入期日に間に合わなかった。さらに同年、長年の領民の怒りが杉木茂左衛門の直訴という形で噴出した。11月、沼田藩は幕府から治世不良、納期遅滞の責めを問われ、改易された。信直は山形藩奥平家に、長男の信音赤穂藩浅野家に、次男の武藤源三郎信秋(母は正室松姫)は郡上藩遠藤常春に、三男の栗本外記直堅・四男の辰之助は上田藩仙石家にお預けとなった。

「磔茂左衛門」(はりつけもざえもん)(生没年不詳)上野国利根群月夜野村の義民。1681年(天和元年)沼田藩真田信利の苛政を領内177か村の惣代として将軍徳川綱吉に直訴したという。実態は不明で。伝承によれば、茂左衛門が板橋宿の茶店に置いた直訴状を収めた文箱が、上野寛永寺から将軍へ届けられたことから、沼田藩の実状が明らかになって、沼田藩の改易に繋がった。茂左衛門も磔刑に処せられ、死後その霊を茂左衛門地蔵に祀ったという。今日も芝居、歌舞伎で『磔茂左衛門』上演されている。杉木 茂左衛門(すぎき もざえもん、寛永11年(1634)? - 貞享3年(1686))は、江戸時代義民上野国(群馬県)の農民。代表越訴型一揆の代表的存在である。磔 茂左衛門(はりつけ もざえもん)とも呼ばれる。また一説1662年、沼田藩真田信利の悪政が始まる。1680年、大飢饉の発生により、経済状況がより悪化。1681年、沼田領77村の農民のために直訴を決意。大老酒井忠清を訪ねるが門前払いにあう。茂左衛門は知恵をめぐらし、輪王寺の紋箱に入れた訴状をわざと茶屋に置き忘れ、茶屋の主人に届けさせた。主人は将軍徳川綱吉に訴状を届け、沼田藩主真田信利は改易となった。1686年、茂左衛門は直訴の罪で妻子もろとも磔刑に処された。実は赦免の使者が出ていたのだが、使者が到着する前に刑が執行されてしまったと言われている。

真田 信利(信直)は、江戸時代前期の上野沼田藩主。父は真田信吉。母は側室で真田家家臣依田氏の娘。「信利」(信直)は真田信之の庶長子である信吉の次男として生まれる。 当時の沼田3万石は独立した藩ではなく、松代藩の分領(分地)であった。沼田は信吉死後、信直の兄の熊之助が統治していたが、寛永15年(1638)に幼くして没した。当時は信直も兵吉を名乗る3歳児だったため、信直の叔父に当たる真田信政が相続した。信直には沼田領のうちから利根郡小川村に5000石を分与され、小川城跡の二の丸を陣屋として、寛永16年(1639年)から明暦3年(1657年)まで母親と共に居住した。明暦2年(1659)、祖父の松代藩主真田信之が隠居したのに伴い、沼田領主であった叔父信政は本家松代藩を相続し、沼田領は代わって信直が領有することになる。信政は2年後の明暦4年(1658)2月に死去した。松代藩はまだ存命だった隠居の信之の決定により、信政の子の幸道を後継者とし、幕府に届け出た。一方で信直は自身が信之の長子信吉の子であることを理由として「真田家の、松代藩の正統な後継者は自分である」と幕府に訴え出て幸道の本藩相続撤回を求めた。

信直には正室の実家の土佐藩老中で下馬将軍酒井忠清、信之の長女光岳院殿の嫁ぎ先である高力氏が後ろ盾となり、大規模な家督騒動を展開したが、6月、幕府は幸道をもって松代藩の後継者と最終決定した。このとき、幕命により沼田領は松代藩から分離独立させられ、信直を藩主として沼田藩として立藩した。これ以降、信直は10万石の松代藩に対抗するため、寛文2年(1662)より領内総検地を断行し、表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打出し幕府に報告した(沼田藩改易後、幕府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった)。また、江戸の藩邸も松代藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装したため、領民は重税を強いられ多数の餓死者を出すなど、ますます窮乏していった。

延宝8(1680)年、信直は両国橋改修の用材の調達を、材木商大和屋から請負った。しかし、折からの台風により利根川片品川が氾濫して用材は流出し、翌天和元年(1681)10月の納入期日に間に合わなかった。

さらに同年、長年の領民の怒りが杉木茂左衛門の直訴という形で噴出した。11月、沼田藩は幕府から治世不良、納期遅滞の責めを問われ、改易された。

信直は山形藩奥平家に、長男の信音赤穂藩浅野家に、次男の武藤源三郎信秋(母は正室松姫)は郡上藩遠藤常春に、三男の栗本外記直堅・四男の辰之助は上田藩仙石家にお預けとなった。また一説では、辰之助は長姫(信利の姉)の養子となり、初め真田修理亮信明、後に千種有純になったとも言われている。尚姫も長姫の養女となり、久我通誠に嫁いでいる。翌天和2年正月には、幕府の命令によって沼田城が破却され、堀も埋められた。その後、信直は奥平家の宇都宮への転封に従って山形から宇都宮に移り、同地で没した。享年54。

沼田藩藩主真田信直は松代藩から信直自身が松代藩の正式な後継者だと家督騒動を起こし幕府から、松代藩から分離し、沼田藩藩主に真田信直として分離独立をした。

信直は松代藩10万石に対抗するために表高3万石を領内総検地によって実高14万4000石に強引に打ち出し幕府に報告をした。

その後幕府が再検地したところ実高6万石に過ぎなかった。江戸の藩邸も松代藩邸も引けを取らない豪邸に、そのため領民は重い年貢負担の為に多数の餓死者を出した。折から信直は両国橋の改修の用材の調達を、木材商大和屋から請け負った。

折しも台風で利根川、片品川の氾濫で用材は流失し、翌年の天和元年の10月の納入が間に合わず、長年の領民の怒りが杉木茂左衛門の直訴で露呈し、幕府から治世不良、納期延滞で改易された。