8、年貢引き上げに惣代に磔で終息【小浜藩領承応元年一揆】

「小浜藩領承応元年一揆」とは、江戸時代小浜藩領内で発生した一揆承応元年(1652年)に指導者である松木荘左衛門が処刑されたことからその名がある。小浜藩では年貢として大豆を徴収する例があり、元は大豆1俵あたり4斗であった。ところが、藩主である京極氏が4斗5升(一説では5斗)に引き上げ、新しく領主になった酒井氏もこれを維持したために農民の間で反対運動が起きた。

寛永17年(1640年)に小浜藩内252か村の惣代が年貢引き下げの訴願を行い、以後も繰り返されたが認められず、8年後の慶安元年(1648年)になって、藩側は松木荘左衛門ら惣代を逮捕した。惣代たちは藩の厳しい吟味によって次々と藩に屈服したが、松木のみは最後まで主張を取り下げず、承応元年(1652年)になって松木を(はりつけ)にしたもの磔の、年貢は旧に復した。このため、松木は義民として祀られることになった。

 

酒井 忠勝(さかい ただかつ)は、武蔵川越藩の第2代藩主、後に若狭小浜藩の初代藩主。第3代将軍徳川家光から第4代将軍徳川家綱時代の老中大老

 天正15年(1587年)6月16日、徳川家康の家臣酒井忠利(後の川越藩初代藩主)の子として三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に生まれる。天正19年(1591年)11月、下総国に3000石を与えられる。

初陣は慶長5年(1600年)、中山道を向かう徳川秀忠に従い従軍した関ヶ原の戦いでの上田合戦である。慶長14年(1606年)11月、従五位下讃岐守に叙任。元和6年(1620年)4月24日、第2代将軍秀忠の命で世継の家光付きとなり、元和8年(1622年)12月3日に武蔵国深谷7000石を加増され、合わせて1万石を領する。

寛永元年(1624)8月には将軍家光の上洛に従い、上総、下総、武蔵の3国のうちから2万石を加増されて、その11月に土井利勝とともに本丸年寄(老中)となる。

寛永4年(1627)11月14日、父の忠利が死去し、遺領を継いで8万石となり、川越藩の第2代藩主となる。寛永9年(1632)9月19日、武蔵国のうちから2万石加増され、同年12月1日には従四位下に昇叙し、侍従に遷任し、讃岐守の兼帯留任。

寛永11年(1634)閏7月6日には、若狭1国および越前近江安房に加増され、若狭国小浜へ移り、12万3500石を領する。将軍・家光から忠勝一代は国持大名とされた。寛永15年(1638)11月7日には、土井利勝と共に老中を罷免され、大事を議する日のみの登城を命じられる。これが後の大老職の起こりとなる。

寛永20年(1643)11月4日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任。讃岐守の兼帯留任となる。明暦2年(1656)5月26

日に家督を四男の忠直に譲って隠居する。晩年は、若年にして酒井氏嫡流雅楽頭家の家督を継いだ忠清を後見していたという。

寛文2年(1662)7月12日に死去した。享年76。福井県小浜市城内鎮座の小浜神社に主祭神として祀られている。

 

松木 庄左衛門(、寛永2年1月25日(1625)-承応元年5月16日1652年)は、江戸時代前期の小浜藩義民。実名は不詳。法号より長操(ちょうそう)とも称される。

 若狭国遠敷郡新道村(現在の福井県三方上中郡若狭町新道)の庄屋。寛永17年(1640)、16歳で庄屋の地位を継ぐ。

小浜藩では関ヶ原の戦い木下勝俊が改易されて京極高次が新藩主となったが、これまでの後瀬山城に替わって新たに小浜城を築城したために財政が苦しかった。このため、大豆納年貢1俵の基準を1俵あたり4斗から4斗5升に改めて増徴を図った。

築城で多くの農民が駆り出されたこともあって領民の生活は苦しくなり、藩側に大豆納を元に戻すように要求したが受け入れられなかった。寛永11年(1634年)に京極忠高(高次の子)に替わって小浜藩主となった酒井忠勝も引き続き税制を維持したために人々の不満は高まった。

そこで寛永17年(1640年)に入って、若狭国内252ヶ村の名主が集まって郡代官所に陳情を行うことになり、この年に名主となったばかりの庄左衛門他20名を総代として陳情を行った。以後、数十回にもわたって直訴を繰り返したために、承応元年(1652年)に総代全員が捕らえられ、獄中で厳しい拷問を受けた。

だが、1人庄左衛門のみはこれを耐えて、獄中でもなお大豆納の引き下げを求めた。これに驚いた藩はやむなく大豆納を元の4斗に戻すことに応じたが、代わりに庄左衛門は同国日笠河原でに処せられ、28歳の命を終えた(小浜藩領承応元年一揆)。以後、領民は大豆の初穂を神前に供えて彼の威徳を謝した。墓所は日笠河原に近い正明寺にある。昭和になってから、彼を祀った松木神社が建立された。

惣代が年貢の引き下げの願いを行い繰り返されたが認められなかった。年貢の大豆は一俵当り4斗だったが、新藩は一俵4斗5升に引き上げられた。

そこで元通りの年貢1俵4斗にするように願い出た。惣代たちは厳しい吟味に屈服し取り下げていく中、1648年藩側の強硬対応に松木荘左衛門らの惣代が申し立てを取り下げず、投獄されたが獄中で引き下げを求めた。

藩側は1俵4斗に戻す代わり磔に処した。庄左衛門は28歳の若さで死去した。以後大豆の初穂には遺徳をしのび神前に供えて遺徳をしのんだという。昭和になって松木神社が建立され義民として崇敬されている。