6、苛政に一揆領主取り潰し改易【白岩一揆】

「白岩一揆」1633年(寛永10年)出羽国村山郡の庄内藩支藩白岩領で起こった。藩の圧政に反対する一揆。

1622年松代藩主酒井忠勝の庄内入封に伴い、弟忠重が8000石を以て白岩領を支配した。以来、高利の種籾貸付、高値の米の売り付け、所産物の安値買い上げ、重い年貢賦課、人夫の徴収、百姓女房への城への召し上げなど圧政を繰り返した。4150人余りの身売り、餓死者を出すほどであった。百姓惣代の江戸への直訴、領内では数百人の百姓が白岩城へ押し寄せ、藩兵と戦い家老を討ち取ったと伝えられる。江戸直訴惣代30人は磔(貼り付け)に処せられた。忠重は領地没収となった。*酒井 忠重は、出羽国村山郡白岩領8000石領主。旗本寄合酒井家次の三男。酒井忠次の養子。慶長3年(1598年) 酒井家次の三男として生れる。

慶長7年(1602年) 既に亡き祖父・酒井忠次の養子となる。元和元年(1615年) 徳川家康秀忠に拝謁し、小姓に召出される。元和3年(1617年) 従五位下長門守に叙任。元和8年(1622年) 出羽国村山郡白岩4000石領主となる。寛永10年(1633年) 1000人余りの餓死者を出すなどの苛政をしいたため、白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴える(白岩一揆)。

寛永15年(1638年) 江戸奉行所の判決により白岩領主を改易となり庄内藩主・酒井忠勝に預けられる。寛永19年(1642年) 忠勝の娘と長男九八郎(忠広)を結婚させて、庄内藩主家の後嗣にしようとする、お家乗っ取り計画が発覚。・承応元年(1652年) 忠勝の遺言分配金に自分の名前が無かったため幕府に提訴し、庄内藩主・酒井忠当より金2万両を贈られて義絶される。  寛文5年(1666年) 息女の結婚の件で相手と論争したこと等が、幕府の知ることとなり、改易される。寛文6年(1666年)9月24日、夜中、何者かに襲われて死亡する。享年69歳。◎近世の直訴について。近世において一般民衆(農民町人)や下級武士を原告とした訴訟は、原則的に所轄の奉行所などが取り扱うこととなっていた。この原則を回避して直接、将軍や幕閣に訴える行為を直訴と呼んだ。また、本来の手続きや担当者を「飛び越して」行なわれることから、越訴(おっそ、えっそ)とも言われた。その方法として外出中の駕籠に駆け寄る方法を取ることも多く、それを駕籠訴(かごそ)と言った。

訴えの目的はさまざまあるが、たとえば年貢率の問題など、奉行所などでは解決できない問題についての訴えをする場合や、領主代官の非を訴える場合などがあった。近世における百姓一揆の形態の変遷の中、初期(17世紀)は佐倉惣五郎の越訴事件などを代表とする、直訴によるものが中心であり、これを「代表越訴型」の一揆と呼んでいる。世間に流布された直訴のイメージは年貢の減免や悪代官などの不正を農民が訴えるなどという今日の行政訴訟に該当する事案がほとんどであったように誤解されている。しかし実際には民事事件が直訴のほとんどを占めていた。これは近世の訴訟手続き上一般民衆が訴えを提起するには所属する町や村の役人の同意が必要とされていたことに起因している。

例えば江戸町民を原告とする民事事件では、まず最初に原告が所属する町役人に事件の相談を行う。相談を受けた町役人は被告側の町役人経由で調停を行いその結果町役人が調停による解決が不可能であると判断して初めて町奉行所に訴えを提起することができた。いわゆる現在でいうところの調停前置制度である。この町役人の調停に当事者が不満を抱いた場合『町役人が怠慢で真面目に活動していない』あるいは『相手方と結託してこちらに不利な調停を行っている』などの理由を挙げて町役人の同意なしに『直ちに訴訟を受け付けて欲しい』として直訴が行われた。

また町民側の調停力、裁判権が及びにくい武家や寺社などの特権階級を相手方とする民事事件でも直訴が行われた。この場合には幕閣のみならず相手の武家の上役や親類筋などにも直訴が行われた。 そして刑事事件においても再審理や刑の減免などを願う駕籠訴が行われており、現実には民事、刑事、行政それぞれの訴訟分野で直訴が行われていた。 旧事諮問録に収録されている元評定所留役の小俣景徳の談話によると「越訴(直訴)は毎日二、三人あった」とされており直訴は特別な行為では無く日常茶飯事であった事がうかがわれる。

またそれらの直訴の取り扱いは「不法行為ではあるが事柄によっては取り上げられることもありましたが殆んどは廃棄されました」と述べており、正規の手続きを経ていない直訴であっても訴えの内容を確認した上で受理・不受理を決定していた事がうかがわれる。直訴はある程度作法化されており、例えば駕籠訴では以下のようになっていた。訴人は紋付き羽織と袴で正装し、訴状は「上」と上書きした紙に包み、先を二つ割にした青竹の棒の先に挟んで持つ。始めに行列前方より訴状を捧げて訴人が行列に接近しようとする、すると供侍がこれを制止する、訴人は制止されても諦めず再度接近しようとする、供侍はまたこれを制止する、それでも訴人は諦めずにみたび接近しようとする。

そこで初めて供侍は『再々にわたるので仕方なく』として訴状を受け取り、供頭に訴人の身柄を拘束するように指示を行う。この時訴人の身柄が拘束されるのは訴状の内容や訴人の身許などの事実関係を確認する事情聴取のためであり、訴人を処罰するためのものではない。

事情聴取が終わり身許が確認され訴状の内容に虚偽など問題がなければ訴人は解放される。この時農民であれば領主が身許引き受け人として引き取ることになる。

勿論受け取った領主側で更に事情聴取が行われるがいきなり問答無用で処罰などということはなかった。処罰などをした場合は農民を引き渡した側の体面を潰すことになるからである。 訴状を受け付けた側には積極的に介入し能動的に事件解決にあたるというまでの義務はなかったが、関係方面に照会を行い必要と認めれば善処方を要請する程度のことは行われた。

これにより事件が明るみにでることになり関係者は適切な対応をする必要に迫られることになった。また事件がもみ消されるのを防ぐために複数の方面に対し直訴を行うという訴訟戦術もしばしば採用されていた。

 

◎直訴は死罪か、直訴はすべて原告が死罪と確定しているものと広く誤解されているが、直訴行為自体が処罰対象となったものはそれほど多くはなく領主や代官の非を訴えた場合であっても、原告勝訴であれば死罪にならなかった。

死罪となった場合でも『直訴の内容が不届きであった』あるいは『徒党を組んで騒動を起こし狼藉を働いた』などという直訴行為そのものを対象としない処罰理由がほとんどである。例えば天保11年の三方領知替えでは庄内藩の転封に反対する領民により多数の直訴が行われた。

大名の転封という幕府の政策(大公儀御政道)に反対する直訴であるにもかかわらず直訴をした領民に対する処罰は無かった。

 しかし、訴える時点で死を覚悟しなければならないため、そのようなエピソード(義民伝承)が農村に数多く伝えられたことから、直訴=死罪という誤解が浸透していったものと考えられる。

悪政に苦しむ百姓の最後の手段が「直訴」である。何れの地代も直訴は固く禁じられ、願いが通っても死罪は免れない。

白岩一揆の場合百姓への圧政に大規模の百姓が放棄した。騒動の両者に罰が下され、百姓惣代30人は磔に処せられらた。忠重は改易、領地没収、33年後何者かによって夜中暗殺されるという。