3、山内藩主に抵抗する旧藩士高石氏の武装蜂【滝山一揆】

滝山一揆は、1603年慶長8年)11月、土佐国山内氏領内において勃発した郷士高石左馬助の扇動による武装一揆。瀧山一揆、本山一揆ともいう。関ヶ原の戦いの以前より、土佐本山は長宗我部氏一領具足の郷士らの領地を安堵していた特殊な地域であった。長宗我部氏の改易後も、郷士らは山内氏の支配に反対して領地安堵を要求し、百姓らを扇動して年貢上納を拒否させていた。

1603年(慶長8年11月、本山支配の土佐藩家老永原一照(山内刑部一照)は、郷士らが百姓らを扇動して年貢上納を拒否させていることを知り、中心人物である高石左馬助を呼び出して委細を詰問したが、高石は凶作を理由に上納を拒否したうえ、鉄砲5挺で武装して本山地区内の滝山に砦を築いて立て籠った。5日間の戦いの果てに一揆勢の敗色が濃厚となるや、高石は霧に紛れて逃走したため、首謀者を失った百姓らは四散した。

この時代一揆に関わった者はほとんど根絶されるのが常であったが、根絶によって百姓が不在となって田畑の荒廃を懸念した一照の英断により、首謀者である郷士のみの処罰とし、百姓らについては不問とした。

この一揆が、長宗我部遺臣による最後の武力抵抗となった。本山は、長宗我部氏が「北山500石」と称せられる本山氏一領具足の在地支配を認めていた地であったため、長宗我部氏改易後も郷士らは領有を主張して、新領主山内氏に対抗して年貢の納入を拒んでいた。

慶長8年(1603年)11月、業を煮やした一照は、北山の土豪・百姓らに「早々に年貢を納めるよう」再三布告をしたが、かつて北山で80石を給せられていた高石左馬助は、「凶作を理由にこれらを拒否するよう」百姓らを扇動したため、激怒した一照は百姓一軒一軒から一人ずつ人質を取って計33名の人質を浦戸に入牢させ、再度「年貢を納めるよう」命じた。

しかし、百姓等は左馬助らの威勢に圧されて年貢の上納に応じなかったことから、一照は左馬助を本山土居に呼び出して詰問するも、「豊作凶作は天然自然の次第であって人智の及ぶものにあらず、武力を以て示めされようが、凶作ゆえに上納致したくとも上納すべきものがござらぬ」と言い逃れて立ち去った。

左馬助は北山討伐を予期し、その日のうちに弟吉之助や北山の百姓らを呼び寄せて武力決起の準備を進め、「反検地と年貢減免」を掲げて近隣の百姓約100名を集めて北山の滝山に立籠った。 

翌日、一照は与力井口惣左衛門を左馬助のもとへ派遣したが、惣左衛門は不穏な動きを知って急ぎ帰参し、「百姓らが滝山に防禦陣地を作り、一揆を謀ている」と言上した。

驚いた一照は配下10名を従えて滝山に向かったが、百姓らが鉄砲で威嚇して来たため、一旦引き返して、翌日手勢を30名に増やして中島村方面から討伐を開始した。中島・寺家両村の百姓らはすぐに敗走したものの、滝山は峻険にして天然の要衝であり、滝山勢の銃弾が一照の鞍に当たるなど膠着状態となったため、一照らは思案して高知に伝令を差し向けた。

この報らを受けて直ちに評定が開かれ、「近隣豊永郷の郷士豊永五郎衛門を召し出して山道を案内させ、野々村因幡山内掃部を加勢して一揆を鎮圧するよう」藩命が下った。

豊永五郎衛門は、当時浪人していた竹崎太郎右衛門三谷次郎三郎等の長宗我部氏遺臣を呼び寄せて討伐軍に加わることを説き、野々村因幡、山内掃部ら援軍を本山まで先導する事になったが、滝山を攻略する道は一つしかなく一揆勢は鉄砲5艇を備え、また釣り石などを駆使して反撃したため多くの死傷者を出した。

そこで一照らは作戦を変更し、針窪山から大筒で敵陣を砲撃する事にしてようやく功を奏し、百姓ら一揆勢は5日後に退散し、左馬助は霧に紛れて土佐国瓜生野に退却し、讃岐国に逃れた。滝山の百姓らはほとんどが一揆に参加していたため、鎮圧後も懲罰を恐れて山に隠れていた。

耕地の荒廃を懸念した豊永五郎衛門は、一照に「百姓らの罪を不問に伏す事」や「未進分の年貢も赦免する事」を嘆願した結果、一照は百姓らの帰村を図るためこの意見を容れて、「一揆を扇動した山原左馬丞とその息子二人を首謀者として断罪にする事」と「百姓らの刀を召し上げにする事」を条件に百姓ら全員の罪を免じた。

しかし、浦戸に捕らえられていた人質の中に大工の彦右衛門という者がおり、「明日人質全員が処刑される」という風聞を信じ、隠し持っていた小さな爪きりで人質10人と無理心中した。山内氏の土佐治政に対する最後の抵抗であり、これ以降、一領具足は弱体化していった。

 

高石 左馬助(生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代前期の土佐地侍滝山一揆(本山一揆)の首謀者。実名不詳。初めは本山氏に仕え、後に長宗我部氏の家臣(一領具足)として土佐国長岡郡に居住し、約80石の知行を得て本山郷約500石を実質的に治めていた。

長宗我部氏が改易された後、慶長8年(1603)に山内氏が土佐に入封するとこれに反抗し年貢上納を懈怠した。困り果てた永原一照(山内刑部)が、左馬助を呼び出してこれを詰問するも「凶作」を理由にして「納入出来ない」と言い逃れた。その後、弟の吉之助農民約30人を扇動して滝山(本山)に立て籠もり、滝山一揆を起こした。

一揆は5日間の激戦の末に永原一照らに鎮圧された。敗戦の色が濃厚となるや、一揆を扇動した首謀者であるにもかかわらず、左馬助は農民を見捨てて雲隠れし土佐国瓜生野を経て讃岐国に逃亡した。その後の動向は不明。

 

*永原 一照(ながはら かつあき)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将土佐藩家老滝山一揆を鎮定し善政により土佐山内氏の土佐治政に功績があった。

永禄元年(1558年)、尾張国に生まれる。祖先は宇多源氏近江佐々木氏支流である山崎氏支流の永原氏は初め高照を名乗る。

始め六角氏に属し、その衰退後織田氏に仕える。天正13年(1558)、近江国長浜城主となった山内一豊に仕える。その後一豊より「一」の偏諱を賜り諱を一照と改める。通称は刑部大輔。また山内姓を許されてされて山内一照・山内刑部を称した。

天正18(1590)、一豊の遠江国掛川転封に伴って知行500石を与えられる。慶長6年(1601)、山内氏の土佐入国に際して積年の功により土佐国長岡郡本山1330石を与えられ本山土居の初代領主として本山領の支配を任される。

慶長8年(1603年)、滝山一揆の鎮圧に尽力し知行2500石に加増され代官領1000石も与えられる。その後本山において善政を敷く。

慶長29年(1614年)、大坂の陣において高知城留守居役を務め主君からの信頼も厚かった。元和6年(1620)6月30日死去。享年63歳。

 

◎一領具足(いちりょうぐそく)は、戦国時代土佐国戦国大名長宗我部氏兵農分離前の武装農民や地侍を対象に編成、運用した半農半兵の兵士および組織の呼称。『土佐物語』では、死生知らずの野武士なりと書かれている。

一領具足は、平時には田畑を耕し、農民として生活をしているが、領主からの動員がかかると、一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を携えて、直ちに召集に応じることを期待されていた。

突然の召集に素早く応じられるように、農作業をしている時も、常に槍と鎧を田畑の傍らに置いていたため、一領具足と呼称された。また正規の武士であれば予備を含めて二領の具足を持っているが、半農半兵の彼らは予備が無く一領しか具足を持っていないので、こう呼ばれていたとも言う。

このような半農半兵の兵士であるから、一領具足は通常の武士が行うべき仕事は免除されていた。農作業に従事しているために、身体壮健なものが多く、また集団行動の適性も高かったため、兵士として高い水準にあったと考えられる。ただし、その半農半兵という性質上、農繁期の動員は困難であり、長期にわたる戦役には耐えられなかったと推測される。兵農分離によって農繁期でも大規模な軍事行動を起こせるようになった織田などの勢力とは、全く逆の方向に進化した軍事制度といえる。

 

※「滝山一揆」は旧臣の対立に農民を巻き込んで生じた一揆と言える。旧領主の長宗我部の家臣は一領具足という制度で、戦国大名長宗我部氏を形成し支えていた。

戦争のない平時には、それぞれ家臣に土地を与えて農業を生業とし、いざ緊急時に領主から招集が掛かれば戦場に赴く時には戦闘員として立ち向かう軍事制度であった。

半農半兵の自主独立性の高い集団であった。この地に山内家臣が転入し新たな秩序を構築しようとする新政山内氏と対立、旧臣の高石左馬助は農民を扇動し、農民30名は5日間激戦を起こし、「滝山一揆」を起こしたが、戦力に勝る山内軍に敗走、讃岐に逃亡し、姿をくらました。残った農民には本来なら厳しい処罰の所、寛大な処置がとられ、融和策に新田開発を許可した。旧臣はそのご藩士になることを許されず、郷士として冷遇され続けた。