『 幕 藩 一 揆 の 攻 防 』   川 村 一 彦 著

1、はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4

2 旧藩士長宗我部の残党の抵抗【浦戸一揆】・・・・・・・・・・5

3 山内藩主に抵抗する旧藩士高石氏の武装蜂起【滝山一揆】・・・10

4、旧臣と新政が農民を巻き込み一揆【秋田藩領慶長8年一揆】・・17

5、過剰な石高負担増え農民一揆に走る【山代慶長一揆】・・・・・20

6、苛政に農民一揆勃発し領主取り潰し改易【白岩一揆】・・・・・27

7、苛政、失政の藩主斬首された大名【島原・天草一揆】・・・・・33

8、年貢引き上げに惣代に磔で終息【小浜藩領承応元年一揆】・・・45

9、増税で農民に苛政、江戸に駕籠訴で藩主改易【郡上一揆】・・・49

10、過剰検地に財政難で直訴で改易【沼田藩領天和元年一揆】・・57

11、苛政に農民二度の一揆で収束【享保3年一揆】・・・・・・・62

12,一揆側・役人側も両成敗決着【久留米藩領享保13年一揆】・66

13、一揆絡みの家騒動【加賀藩領寛文7年検地反対一揆】・・・72

14、希れに見る三十万の一揆に藩は譲歩【元文一揆】・・・・・76

15,失政に転封に不満に一揆が鎮圧【姫路藩領寛延2年一揆】・・84

16、飢餓と家臣内紛で一揆で役職処罰【久万山一揆】・・・・・・88

17、農民増税の愁訴を無視し処罰【摂津国河内国延享2年一揆】・93

18、義民彦内の犠牲で収束【陸奥国寛延2・3年一揆】・・・・・95

19、農民増税に一揆は鎮圧される【佐賀藩領寛延3年諫早一揆】98

20、多数の義民で鎮静化【丸亀藩・多度津藩領寛延3年一揆】・104

21、藩政の腐敗に一揆で駕籠訴で改易【郡上藩領宝暦年間一揆】109

22、一揆で藩役人の腐敗発覚【上田騒動】・・・・・・・・・・115

23、一揆打毀しに藩側要求受け入れる【福井藩領明和5年一揆】119

24、村民に助郷の負担で一揆拡大で取り下げ【中山道伝馬騒動】124

25、増税に領民一揆首謀者の処刑で落着させた【虹の松原一揆】129

26、飢餓と買い占めで一揆【上野国・信濃国天明3年一揆】・・135

27、絹売買に税収に一揆が勃発し藩側撤回【絹一揆】・・・・・142

28、自藩米を江戸大坂に廻米に一揆【弘前藩領天明3年一揆】・145

29、財政難に増税に負担の農民一揆【松江領天明3年一揆】・・149

30、惣代の不正発覚に町民一揆【近江八幡町天明6年一揆】・・153

31、失政に一揆に藩主再興し収束【福山藩領天明6年一揆】・・158

32、豪商人の排除に一揆に妥協点【松前藩領寛政2年一揆】・・161

33、製紙の利権で一揆で義民の武左衛門【武左衛門一揆】・・・・・・165

34、天領と藩領の曖昧さに負担増に一揆【享和・村山一揆】・・・・・174

35、減免へ一揆打毀しに鎮圧【富山藩領文化10年一揆】・・・・・・177

36、神出鬼没の一揆に助郷の打毀し処罰し鎮圧【牛久助郷一揆】・・・184

37、日銭徴収で一揆打毀し多数処罰【宮津藩領文政5年一揆】・・・・188

38、水争いから一揆打毀し多数処刑【紀州藩領文政6年一揆】・・・・193

39、皮産物の不吉と一揆打毀し多数処刑【長州藩天保一揆】・・・・・199

40、米不足で配分で一揆不満収まらず【北浦一揆】・・・・・・・・・205

41、甲州一円に一揆打毀しに処罰者最小限に【甲州一揆】・・・・・・212

42、流通統制に一揆が勃発し譲歩終息【佐渡国天保9年一揆】・・・・220

43、領地替えの反対一揆【荘内藩天保11年転封反対一揆】・・・・・223

44、利権絡み反対一揆【加賀藩領嘉永2年河北潟埋立反対一揆】・・・228

45、討幕の波が新時代に民衆一揆へ【世直し一揆】・・・・・・・・・231

46、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・240

 

 

 

 

『幕藩一揆の攻防』

1 「はじめに」

日本史上,最も天下泰平で安定した時代は、慶長年間から始まった徳川幕府の江戸時代である。西暦1603年から1867年の明治維新までの約260年間の鎖国と共に、幕藩体制の下に日本の独自な統治と伝統文化、風習と習慣を形成していった。

江戸時代の天下泰平社会であっても、苦しい暮らしの百姓一揆は藩政に絶えることなく訴え続けた。藩政の財政難に検地を(税率)改め重税と税制を変え巧みに百姓に負担求め、百姓は年貢、労役に疲弊し、耐え切れなく越訴、箱訴、駕籠訴など、一揆を頻繁に起こした。一揆には秩序を乱し、混乱を招いたとして、厳しい処分が下されたが、処分は農民ばかりに、厳しい処罰は下されなかった。

藩政の失策として大名にも厳しい沙汰が下され、減封、転封、改易から切腹まで百姓同様の処分を下された。放漫藩政に破たんする藩には「藩再建屋」松波勘十郎様なるものが現れ、何カ所かの藩検地の見直しや地域物産の販売で成果を得たが、最後は水戸藩で失敗し獄死している。越訴によって藩政の失政が、幕府の知る所に至り大名が改易に処せられた。

天候異変で疲弊する百姓に年貢は農民の飢餓に死者の数が悲惨さを物語り、惣代、庄屋は立ち上がり、首謀者として斬首、磔(はりつけ)を以て収束をした。また地域に一揆で犠牲になった「義民」を後世に伝え残され、今尚、偉人として顕彰されている。

江戸中・後期には、打毀し、「世直し一揆」と藩政を揺るがす騒動へと変化していった。幕藩体制で52件の一揆を探り、江戸泰平の世に幕藩体制の維持・存続と、民・百姓の生存をかけて、丁々発止の攻防を繰り広げられた。