江戸の町の守護神であった神田明神に対して日枝神社は江戸城そのものの守護を司ったために、幕府の保護が手厚く、祭礼の際には将軍の名代が派遣されたり、祭祀に必要な調度品の費用や人員が幕府から出される(助成金の交付・大名旗本の動員)一方で、行列の集合から経路、解散までの順序が厳しく定められていた。

それでも最盛期の文化文政期には神輿3基、山車60台という大行列となった。また後には祇園会と混同され、江戸を代表する夏祭りとしても扱われるようになった。

そんな山王祭も天保の改革の倹約令の対象となって以後衰微し、文久2年(1862年)の祭を最後に将軍(家茂慶喜)が上方に滞在し続けたまま江戸幕府は滅亡を迎えたために天下祭としての意義を失った。

また明治22年(1889年)を最後に、山車が山王祭に引き出されることは無くなった。東京市電架線敷設により背の高い山車の運行が出来なくなったからといわれるが、引き回すのに多額の費用を要する山車が、各町において次第に経済的な負担になったことによるともいう。更に東京大空襲によって神社が焼失し、昭和27年(1952年)まで中断されるなど、苦難の道を歩む事になりながらも今日まで継続されている。

祭りの内容

大祭は神田祭と交互で毎年西暦偶数年に行われる。内容は神田祭と類似する。

夏越稚児まつり

毎年行われる。大祭の年は期間中の日曜日に行われる。稚児行列が神職や巫女に付き添われ神社の周囲を練り歩く。

江戸時代の山王祭の山車行列

「月百姿 神事残月」 江戸時代の山王祭の様子を描いたもの。明治19年(1886年)、月岡芳年筆。画面奥に見える土手は江戸城で、山車練り物とそれに続く神輿3基の行列が城内に繰り込むところ。

画面手前左に描かれる山車は十番・加茂能人形の山車で、右奥にあるのが一番・諌鼓鶏の吹貫の山車である。画面からは見えないが、当時の山車はいずれも牛が曳いた。なお加茂能人形の山車は関東大震災で焼失したが、昭和30年(1955年)に復元製作され、現在は神田祭において神田明神境内に飾られている。

山王祭の宵宮は6月14日の午の刻(昼の12時)から始まった。

社前で別当社僧の読経が行われ、続いて神主の祝詞奏上と神楽の演奏が行われた。その後に街中で山車と練り物が練り歩いた。沿道は軒提灯や金屏風で飾り立てられ、桟敷や毛氈をしつらえて見物客を招き、夜通しの酒宴を催し行列の始まる夜明けを待った。

6月15日未明から、山王祭の山車行列が出発した[1]。町内より山下御門を入り、日比谷御門の御堀端沿いに進んで桜田門の前で左に折れ、南番付坂を登って山王社の前で右に折れて御堀端通りに出る。

半蔵門から城内に入り上覧を行ったのち、竹橋門を出て大手前の屋敷に沿って常盤橋御門を出る。

ここで練り物は解散して神輿だけの行列となり、本町から十軒店、本石町、鉄砲町、大伝馬町、田所町、掘留、小網町と進み、茅場町から御旅所へと至る。御旅所で奉幣し、神饌を奉じたのちに青物町、尾張町、山下町と進み、山下御門から元の道筋を通って本社に環幸した。

以下は江戸時代神幸祭の行列に加わった山車の一覧で、当時の行列は大榊を先頭にして、次に各町の山車、練り物、その次に神輿3基を中心とする行列が続くというものであった。この山車行列の内容は文久2年の時のものである。山車の次にある町名はその山車を出した当時の氏子町で、括弧内はその町域に相当する現在地名。

天海に関する逸話

徳川幕府が林鵞峰に命じて『続本朝通鑑』を編纂する際に上杉家から献上された報告書『上杉将士書上』によると、天海は天文23年(1554年)に信濃国で行われた川中島の戦いを山の上から見物したという。

関ヶ原の戦いに天海が参加していたという話がある。関ケ原町歴史民俗資料館が所蔵する『関ヶ原合戦図屏風』に描かれた家康本陣には、天海であるとされる、鎧兜姿の「南光坊」という人物が配置されている。

この屏風は彦根城博物館が所蔵する江戸時代後期に狩野貞信が描いた屏風を模写したものであるが、彦根城博物館のものには「南光坊」と記載されていない。

大坂城の建物を利用した博物館・大阪城天守閣は、天海所用の伝承がある甲冑を所蔵している。

天海は、秀忠と家光にそれぞれ長寿の秘訣を歌に詠んで送っている。秀忠に対しては「長命は、粗食、正直、日湯(毎日風呂に入ること)、陀羅尼(お経)、時折、ご下風(屁)あそばさるべし」、短気で好色な家光に対しては「気は長く、務めはかたく、色薄く、食細くして、心広かれ」というものである。

異説

その出自の曖昧さもあり小説等で出てくる説として天海が足利将軍家12代・足利義晴の子という説や明智光秀と同一人物という説がある(墓所である日光に「明智平」という場所があることなどが根拠に挙げられることが多い)。

1916年大正5年)、天海の伝記『大僧正天海』を著した須藤光暉は、天海は船木兵部少輔景光と妻の芦名氏の子であると推定しているが、一部の考証家に「光秀が天海となり、豊臣氏を滅ぼして恨みを晴らした」という「奇説」を唱えるものがいると記述しており[8]、この頃にはすでにこの説が唱えられていたとみられる。

「丸に二引き両」は足利氏のものであるが、足利氏の庶流(斯波氏吉良氏今川氏等)や美濃国に発祥する遠山氏も用いている。

一方の「輪宝紋」は、仏教法輪から発生した紋章で、寺院や神社の装飾としてよく使われる紋である。武家でも摂津国三河国三宅氏が三宅輪宝と呼ばれる紋を使い加納氏津軽氏も用いている。

家紋は苗字と同じであり、自らの出自と無関係に用いることは普通ない。天海の存命中から足利氏説は広まっていたが、家紋が足利氏のものと似ているのがこの風説の発端であったと須藤光暉は考察している。

天海=明智光秀説」を参照