詩歌を好み、細川幽斎烏丸光広と交わり、自らの歌の添削などを依頼している。

自身の禅を自分一代で断絶させている。嗣法を家光や後水尾上皇から求められてもこれを拒否し、最後まで嗣法の弟子を定めず、遺戒においては、自身の禅を継いだと称する者は法賊であるとまで言っている。また、自らの事蹟を残さないようにも命じているが、後に門人・武野宗朝が『東海和尚紀年録』を記している。

寛永20年(1643年)に108歳で没したとされる。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。

天海は生前に日本での一切経(大蔵経)の印刷と出版を企図。慶安元年(1648年)には、天海が着手した『寛永寺版(天海版)大蔵経』が、幕府の支援により完成した。

天海によるこれらの経典の出版は日本の印刷文化史上、最も重要な業績の一つと言われている。天海が作製させた膨大な木製活字(天海版木活字)は26万個以上が現存している。

廟所

慈眼堂 - 輪王寺にある天海の廟所(国の重要文化財

慈眼堂 - 喜多院にある天海の廟所(国の重要文化財)

慈眼堂 - 大津市坂本にある天海の廟所(滋賀県指定文化財

 

11「天海の江戸設計」

この項目はそう唱えている研究者がいるというだけであり、多くのコンセンスを得られているわけではないということに留意されたい。

関ケ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603年)に幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選んだとされる。

天海は家康の命により伊豆から下総まで関東の地相を調べ、古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」の考えをもとに、江戸が幕府の本拠地に適していると結論を下したとされる。

「四神相応」とは、東に川が流れ、西に低い山や道が走り、南に湖や海があり、北に高い山がある土地は栄えると考えられたものである。

天海は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったことから、江戸が四神相応にかなうと考えたとされる。

なお、富士山は実際には「北」(真北)から112度ずれているが、天海を始めとする当時の江戸の人々は、富士山をあえて北とみたてて、江戸を四神相応にかなうとみなしたという。江戸城の大手門の向きが「北」からずれているのも、富士山を「北」とみなしたためだとされる。

また、天海は、江戸にある上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金の7つの台地の突端の延長線が交わる地に、江戸城の本丸を置くよう助言したとされる。陰陽道の知識により、地形の中心に周辺の気が集まることを狙ったとされる。

江戸城の場所が決定した後、藤堂高虎らが中心となって江戸城と堀の設計が行われたが、天海は、実務的な作業工程とは次元を異にする、思想・宗教的な面で設計に関わっていたとされる。

江戸城の工事は寛永17年(1640年)に終わるが、その途中で他の設計者が亡くなっていった中で、天海はなお存命しており、江戸の都市計画の初期から完成まで、50年近く関わったとされる。

天海は、江戸城の内部を渦郭式という「の」の字型の構造にすることや、城を取り囲む掘を螺旋状の「の」の字型に掘ることなどを助言したとされる。

「の」の字型の構造は、城を中心に時計回りで町が拡大していくことを意図したものとされるが、他に、敵を城に近づけにくくする、火災発生時に類焼が広がるのを防ぐ、物資を船で運搬しやすくする、堀の工事により得た土砂を海岸の埋め立てに利用する、などのメリットがあったとされる。

 

12「江戸の鎮護に神仏の配置」

天海は、江戸城の北東と南西の方角にある「鬼門」・「裏鬼門」を重視して、鬼門を鎮護するための工夫を凝らしたとされる。

天海は、江戸城の北東に寛永寺を築き、住職を務めた。寛永寺の寺号「東叡山」は東の比叡山を意味するが、天海は、平安京の鬼門を守った比叡山の延暦寺に倣って、寛永寺の側に、近江の琵琶湖を思わせる不忍池を築き、琵琶湖の竹生島に倣って、池の中之島に弁財天を祀るなどし、寛永寺が、比叡山と同じ役割を果たすよう狙ったとされる。

上記の他、天海は、寛永4年(1627年)には、寛永寺の隣に上野東照宮を建立し、家康を祀り、もともと現在の東京都千代田区大手町付近にあった神田神社を現在の湯島に移し、幕府の祈願所とした浅草寺で家康を東照大権現として祀るなど、江戸城の鬼門鎮護を厚くしたとされる。

また、江戸城の南西(裏鬼門)についても、その方角にある増上寺に2代将軍である徳川秀忠を葬ったうえで徳川家の菩提寺とし、さらに、同じ方角に、日枝神社日吉大社から分祀)を移すなどして、鎮護を意図したとされる。

神田神社神田祭浅草神社三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸の三大祭とされるが、

神田祭(かんだまつり)とは、東京都千代田区神田明神で行われる祭礼のこと。「神田明神祭」とも呼ばれ、山王祭三社祭と並んで江戸三大祭の一つとされている(三社祭の代わりに深川祭とする事もある)。

京都祇園祭大阪天神祭と共に日本の三大祭りの一つにも数えられる。なお祭礼の時期は現在は5月の中旬だが、以前は旧暦の9月15日に行っていた。

隔年で5月中旬に行われる神田明神祭礼。江戸時代を通じて全国的に有名な祭のひとつとして「日本の三大祭り」「江戸三大祭」の中に数えられる。

 行事は主に、祭神を御輿に移す鳳輦神輿遷座祭、各町内会の連合渡御となる氏子町会神輿神霊入れ、伝統の神事能である明神能・幽玄の花、そしてすべての神職が奉仕する例大祭などがある。

神田祭の起源については記録文書等がほとんど残っておらず、詳細は不明であるが、大祭になったのは江戸時代以降のことである。

江戸時代の『神田大明神御由緒書』によると、江戸幕府開府以前の慶長5年(1600年)に徳川家康が会津征伐において上杉景勝との合戦に臨んだ時や、関ヶ原の合戦においても神田大明神に戦勝の祈祷を命じた。

神社では家康の命によって毎日祈祷を行っていたところ、9月15日の祭礼の日に家康が合戦に勝利し天下統一を果たした。そのため家康の特に崇敬するところとなり、社殿、神輿・祭器を寄進し、神田祭は徳川家縁起の祭として以後盛大に執り行われることになったという。