一剣士としてだけに留まらず、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「剣禅一致」などの概念を包括した新しい兵法思想を確立し、後世の武術武道に大きな影響を与えた。その功績を讃え、平成15年(2003年)には宮本武蔵と並んで全日本剣道連盟剣道殿堂(別格顕彰)に列せられている。

この宗矩の思想をまとめた『兵法家伝書』は、『五輪書』と共に近世武道書の二大巨峰と評され、『葉隠』や新渡戸稲造著『武士道』など武道以外の分野の書物にも影響を与えている。

流派当主としては、新陰流(柳生新陰流)を将軍家御流儀として確立し、当時最大の流派に育て上げた。これにより、当時多くの大名家が宗矩の門弟を指南役として召抱え、柳生新陰流は「天下一の柳生」と呼ばれるほどの隆盛を誇った。

幕臣としては有能な官吏・為政者として辣腕を振るい、多くの大名家に恐れられ、また頼られた。伊達氏伊達政宗)、鍋島氏鍋島勝茂鍋島元茂)、細川氏細川忠興細川忠利)、毛利氏毛利秀就)などと親交があった。幕府初代惣目付として勤めていた際、細川忠興はその手紙で「(老中たちですら)大横目におじおそれ候」と記している。

また惣目付としての働きの他、寛永11年(1634年)の家光上洛に際しては、事前の宿場検分役や帰りの道中修造奉行、寛永13年(1636年)の江戸城普請の際の普請奉行などもこなしている。

将軍・家光には若い頃からの指南役として深い信頼を寄せられ、松平信綱春日局と共に将軍を支える「鼎の脚」の一人として数えられた。肩書きは兵法指南役であったが剣を通じて禅や政治を説いたことで「家光の人間的成長を促した教育者」としても評価された。

家光が長じた後も、沢庵と共に私的な相談を度々受けて、最後まで信頼され続け、見舞いの床においても兵法諮問に答えている。また、家光も生涯、宗矩以外の兵法指南役を持たなかった。

父親としては、子息4人のうち、長男・三厳(十兵衛)はその不行状から家光の不興を買い謹慎、三男・宗冬は成人まで剣の修行を厭うなど、子の教育について沢庵より忠告を受けている。「政治家・宗矩」と「剣士・十兵衛」の不仲・対立を描いた創作物がある一方で、三厳は著書で「祖父・石舟斎は流祖・信綱より新陰流を受け継ぎ信綱にまさり、父・宗矩は祖父の後を継いで祖父にまさる」としてその出藍の誉れをたたえている。

思想

詳細は「兵法家伝書」を参照

宗矩の思想(兵法思想)は、その代表的著作である「兵法家伝書」にて詳しく述べられている。 実戦でどのようにあるべきかという兵法本来の思想だけでなく、兵法は如何にあるべきかという社会的な面からの思想も述べられているのが特徴である。

社会的な面での思想

兵法(剣術)の理想として「活人剣」を提唱した。

これは「本来忌むべき存在である武力も、一人の悪人を殺すために用いることで、万人を救い『活かす』ための手段となる」というもので、戦乱の時代が終わりを迎えた際、「太平の世における剣術」の存在意義を新たに定義したものである。

また、沢庵の教示による「剣禅一致(剣禅一如)」等の概念を取り込み、「修身」の手段としての剣術も提唱したことで、それまで戦場での一技法に過ぎなかった武術としての剣術を、人間としての高みを目指す武道に昇華させる端緒となった。これらは大きく広まり、剣術のみならず、柔術や槍術など、江戸時代の武道各派に影響を与え、その理念は現代の剣道にも受け継がれた

実戦的な面での思想

直接的な技法だけではなく、「心法」にも注目し、この重要性を説いた。

ここでいう心法は観念的なものではなく、現代で言うメンタルトレーニング的な面が強く、相手の動きや心理の洞察、それを踏まえた様々な駆け引き、またいかなる状況においても自身の実力を完全に発揮し得る心理状態への到達・維持など、実戦における心理的な要素を極めることで、より高みに達することを目指したものであった。

(その心の鍛錬のための手段として、禅の修行が有効であるとしている)これについて、技法を軽んじ、心法に偏重したと批判する意見[注釈 15]もあるが、宗矩自身は『兵法家伝書』において、あくまで技法を完全に修めた上で、これを自在に扱うために必要なものとして心法を説いている。

沢庵 宗彭(たくあん そうほう、澤庵 宗彭天正元年12月1日1573年12月24日) - 正保2年12月11日1646年1月27日)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗大徳寺住持。諡は普光国師(300年忌にあたる昭和19年(1944年)に宣下)。号に東海・暮翁など。

但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれ。紫衣事件出羽国流罪となり、その後赦されて江戸萬松山東海寺を開いた。

書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある(同項目を参照のこと)。

出生から大悟まで

天正元年12月1日(1573年12月24日)に秋庭綱典の次男として但馬国出石に生まれる。父・綱典は但馬国主・山名祐豊の重臣であった。

8歳のとき但馬山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。沢庵は天正10年(1582年)、10歳で出石の唱念寺で出家し春翁の法諱を得た。

天正13年(1586年)、同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事。秀喜と改名した。天正19年(1591年)、希先が没した後、この間に出石城主となっていた前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いたことで、沢庵は薫甫に師事することになった。

文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入った。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。慶長4年(1599年)、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、三玄院の建立以来親交があった春屋に住職の派遣を依頼した。春屋が薫甫を住職に任命したことで、師である薫甫と共に沢庵も佐和山城に同行し、翌年までそこで過ごした。

関ヶ原の戦いの結果、佐和山城が陥落すると、薫甫と沢庵は共に城を脱出し、春屋のところに落ち延びた。この後、春屋と共に、処刑された三成の遺体を引き取った後、三玄院に葬り、手厚く弔っている。