三山管領宮

歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれた。東国皇族を常駐させることで、西国皇室を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、気学における四神相応土地相とし、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある(「奥羽越列藩同盟」、「北白川宮能久親王(東武皇帝)」参照)。

歴代寛永寺貫首(輪王寺宮)

天海

公海

守澄法親王(第179世天台座主。輪王寺宮門跡の始まり。後水尾天皇第3皇子)

天真法親王後西天皇第5皇子)

公弁法親王(第188、190世天台座主。後西天皇第6皇子。赤穂事件で将軍徳川綱吉の諮問を受ける)

公寛法親王(第196、199世天台座主。東山天皇第3皇子)

公遵法親王(第203、206世天台座主。中御門天皇第2皇子)

公啓法親王(第208世天台座主。閑院宮直仁親王第2王子)

公遵法親王 (再任)

公延法親王(第213世天台座主。閑院宮典仁親王第4王子)

公澄法親王(第216世天台座主。伏見宮邦頼親王第2王子)

舜仁入道親王(第226世天台座主。有栖川宮織仁親王第4王子。)

公紹法親王有栖川宮韶仁親王第3王子)

慈性入道親王(第230世天台座主。有栖川宮韶仁親王第2王子)

公現入道親王(のち還俗して北白川宮能久親王

衰退と復興

江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだ(現存するのは19か院)。現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内である。

最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたというから、その規模の大きさが想像できる。たとえば、現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。

江戸時代には飛鳥山と並ぶ桜の名所として知られており庶民の行楽地であった。

しかし、上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となり、根本中堂をはじめ主要な堂宇を焼失。残された建物は五重塔、清水堂、大仏殿などだけとなった。

明治維新後、境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873年)には旧境内地が公園用地に指定されるなどして寺は廃止状態に追い込まれるが、明治8年(1875年)に再発足。江戸時代の境内地だった場所は上野公園や上野駅の用地となり大きく変貌していたが、子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし復興の途についた。

第二次世界大戦の空襲では、当時残っていた徳川家霊廟の建物の大部分が焼失した。上野戦争で焼け残り、第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在している。

 

10「紫衣事件の赦免で奔走」

江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。

紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、

紫衣事件(しえじけん)は、江戸時代初期における、江戸幕府朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。

江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とみなされる事件。後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく譲位を決意したとも考えられており、朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立だった

紫衣と事件に至る事情

紫衣とは、紫色の法衣袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。

これに対し、慶長18年(1613年)、江戸幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらに慶長20年(1615年)には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。

一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)

事件の概要

このように、幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。

幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職沢庵宗彭や、妙心寺東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。

寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国陸奥国への流罪に処した。

この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している。

その後

寛永9年(1632年)、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許された。配流された僧のうち、沢庵は徳川家光の帰依を受けたことで家光に近侍し、寺法旧復を訴えた。