6「喜多院住持

天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺院に来てからである。

喜多院(きたいん)は、埼玉県川越市にある天台宗寺院。山号は星野山(せいやさん)。

良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参拝客が訪れる。

平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号した。無量寿寺には北院、中院、南院があり、伏見天皇尊海僧正に命じ関東天台宗の本山とした。

後伏見天皇は東国580寺の本山としての勅書を下し、後奈良天皇は星野山の勅額を下した。永禄年間(1558年 – 1570年)頃までは3院が存在していたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200㎡南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っている。

慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。

川越藩主となった老中酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。元和2年(1616年)駿府城で徳川家康が亡くなり、久能山で葬られるが日光山に向かう間の元和3年(1617年)3月23日~3月26日の4日間、喜多院にて天海僧正が導師として大法要を営む。そのことから境内には仙波東照宮が祀られ、寛永10年(1633年)に完成する。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。

これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けた。

4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。

「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座する。石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承が残る。

越前松平家の流れを汲む松平大和守家の川越藩主(川越で逝去した松平朝矩から松平直侯まで5人)のもある。

建築物

客殿(重要文化財) - 寛永15年(1638年)建立。「徳川家光誕生の間」がある。

書院(重要文化財) - 寛永16年(1639年)建立。「春日局化粧の間」がある。

庫裏(重要文化財) - 寛永15年(1638年)建立。

山門(重要文化財) - 寛永9年(1632年)、天海僧正により建立。喜多院で現存する最古の建物。

鐘楼門(附:銅鐘)(重要文化財) - 元禄15年(1702年)建立。

慈眼堂(重要文化財) - 正保2年(1645年)建立。慈眼大師天海を祀る。厨子に入った天海僧正の木像が安置されている。

仙波東照宮(重要文化財)

慈恵堂(県指定有形文化財(建造物)) 中央に慈恵大師をまつり、左右に不動明王をまつる。

多宝塔(県指定有形文化財(建造物))

江戸城遺構

江戸城にあった建物は川越に最も現存している。1638年(寛永15年)の川越大火で焼失した際、3代将軍徳川家光の命で江戸城の建物が移築された。客殿には徳川家光誕生の間と言われている部屋があり、家光の乳母春日局の間を含む書院庫裏も移築されている(全て国の重要文化財)。喜多院の北方には江戸末期に建設された川越城本丸御殿が現存しており、江戸時代初期と末期の御殿建築を直接比較することができる。

この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。

江戸崎不動院(えどさきふどういん)は、茨城県稲敷市江戸崎にある、天台宗の寺院。山号は医王山。寺号は東光寺。

稲敷市江戸崎のほぼ中央に位置する高台にある寺院で、不動明王を本尊とし、「不動院」「不動尊院」など様々な呼ばれ方があるが、一般には「江戸崎不動院」の呼び名で親しまれる。 当時、随風と名乗っていた天海が、天正19年(1591年)から約17年間、住職を務め、江戸時代は天台宗の学問所である関東八檀林の一つとして栄えた。

境内地は約5万3000平方メートルあり、明暦元年(1655年)徳川4代将軍・家綱の援助を受けて建てられた仁王門をはじめ、板碑手水鉢灯篭宝篋印塔があり、さらに郷土の先人である大築由造大久保英助の記念碑など多くの石造物も残されている。寺宝も多く、狩野探幽筆の雨海画像、東照権現神号、天海木像などを所蔵する 。

開山については諸説あるが、嘉祥元年(848年慈覚が開山し、文明2年(1470年)に幸誉が中興したとする説と、文明2年に幸誉が開山したとする説がある。

のちに衰退したが、歴代の江戸崎城主となった土岐原氏蘆名氏の保護を受け、特に天正19年(1591年)に江戸崎城主であった蘆名盛重が、中興開山に随風(のちの天海)を第八世住職として迎え、諸堂を再建した。随風は、徳川家康の信任が厚く黒衣の宰相といわれた傑僧で、江戸崎不動院には約17年間ほど住んだといわれる 。

慶長7年(1602年)、徳川家康から寺領150石の御朱印地が寄進され、以後、寺は徳川将軍家の帰依を受けて、寺領250石の御朱印地を有した 。