園城寺は平安時代から戦国時代までで合戦・焼き討ち・火災などで23回も炎上しているが、うち14回は延暦寺による焼き討ちであった。

寛永年間(1624年 – 1645年)には寺領4,619石が安堵されている。

明治維新後、北院の大半は陸軍用地として軍部に接収されてしまい歩兵第9連隊司令部(現、大津商業高校)や練兵場(現、皇子山総合運動公園)となり、最終的に新羅善神堂と法明院を残して廃絶してしまった。

また、明治以降は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年昭和21年)に天台寺門宗と名称を改めたうえで天台寺門宗総本山となった。

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗大本山である日本仏教寺院南都七大寺の一つに数えられる。

寺院本尊は中金堂の釈迦如来であり、南円堂(本尊・不空羂索観世音菩薩〈不空羂索観音〉)は西国三十三所第9番札所となっている。

札所本尊真言(不空羂索観音):おん はんどま だあぼきゃ じゃやでい そろそろ そわか

ご詠歌(南円堂):春の日は南円堂にかがやきて 三笠の山に晴るるうす雲

藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

創建

藤原鎌足夫人鏡大王の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。

壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年と言える。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

その後も、天皇皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。

南都北嶺

興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して、事実上の同国の国主となった。

その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。中でも天禄元年(970年)に定昭の創立した一乗院寛治元年(1087年隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。

鎌倉室町時代武士の時代になっても大和武士[注 2] と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、鎌倉幕府室町幕府守護を置くことができず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余とされた。

平重衡の兵火による焼失

興福寺は創建以来、度々火災に見舞われ、その都度再建を繰り返してきた。2018年に再建された中金堂は兵火や落雷により七度焼失している。中でも治承4年(1180年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。

この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走。朝廷や藤原氏との交渉の結果、平氏政権が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺側へ返却され、朝廷と藤原氏長者、興福寺の3者で費用を分担して、復興事業が実施されることとなった。

現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

江戸時代享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時に焼けた西金堂、講堂南大門などは再建されず、金堂も1世紀以上経過した後にようやく安普請の「仮金堂」が建てられた。江戸時代は2万1,000石の寺領を与えられていた。

廃仏毀釈による破壊

慶応4年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈を引き起こし、春日社と一体の信仰(神仏習合)が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった。興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗った(奈良華族)。

子院は全て廃止、寺領は1871年(明治4年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となった。境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。

一乗院跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。一時は廃寺同然となり、五重塔三重塔さえ売りに出る始末だった。五重塔は250円(値段には諸説ある)で買い手がつき、買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたが、延焼を心配する近隣住民の反対で火を付けるのは取りやめになったという。ただし、五重塔が焼かれなかった理由はそれだけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという。