家康の豊臣政権への臣従までの経緯は『家忠日記』に記されているが、こうした情勢の中、同年9月に秀吉は家康に対して更なる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と石川数正ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせていたという。同年11月13日には石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという(『駿河土産』)。

天正14年(1586年)に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み(『当代記』)、4月23日には臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となる。さらに10月18日には秀吉が生母・大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、24日に家康は浜松を出立し上洛している。

家康は10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。

この謁見の際に家康は、秀吉が着用していた陣羽織を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓った(徳川実紀)。

 

小槻孝亮の日記『孝亮宿祢日次記』には、天海が寛永9年4月17日1632年6月4日)に日光東照宮薬師堂法華経万部供養の導師を行った記事があるが、天海はこの時97歳(数え年)であったという。これに従うと生年は天文5年(1536年)と推定され、没年は107歳(数え年108歳)となる。このほか永正7年(1510年)(上杉将士書上)、享禄3年(1530年)、天文11年(1542年)、天文23年(1554年)といった説がある。しかしこれらは比較的信頼度が低い史料に拠っているとされている。須藤光暉は12種の生年説を比較検討した上で、天文5年説を妥当としている。

以上の出自と生年に関する一連の考察から、天海は天文5年(1536年)に会津の蘆名氏の一族として生まれたとする見解が最も一般的なものとなっているが、定説といえるものは未だにない。

 

5「天海の前半生の修業時代

先述のように陸奥国会津出身と伝えられているが前半生についてはよくわかっていない。

龍興寺にて随風と称して出家した後、

龍興寺(りゅうこうじ)は福島県大沼郡会津美里町にある天台宗寺院。山号は道樹山。

848年嘉承元年)慈覚大師円仁の開山と伝えられている。徳川家康のブレーンとして権勢をふるった天海大僧正得度した寺ともいわれており、境内には天海の両親のものと思われる墓も存在している。

しかし、天海と龍興寺、かつ当時の会津領主・蘆名氏を結びつける史料は存在していない。そのため、天海が当地の出身で龍興寺ゆかりの僧であるという話は伝説の域をでていない。

寺には現在、国宝・一字蓮台法華経開結や福島県指定重要文化財・絹本著色両界曼陀羅などの文化財が保存されている。一字蓮台法華経開結は、法華経に経文の一文字を一仏と見立てて蓮台の上に乗せるように書写した装飾経である。もともと10巻あったといわれているが第6巻が欠けており、9巻のみが現存する。平安時代後期の作と推定され、1952年昭和27年)に国宝に指定された。

 

14歳で下野国宇都宮粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国比叡山延暦寺園城寺大和国興福寺などで学を深めたという。

粉河寺(こかわでら)は、かつて下野国河内郡宇都宮(現在の栃木県宇都宮市本町付近)にあった天台宗寺院

下野宇都宮氏第10代当主の宇都宮氏綱が遠征先の紀伊国粉河寺で客死したことから、第12代当主の宇都宮満綱宇都宮城下に紀の粉河寺千手観音を勧請して当寺を建立したという。当寺は宇都宮氏の庇護の下で隆盛し、戦国時代には慈眼大師天海が青年期に当寺の住職であった皇舜僧正に師事し天台宗を学んだと伝えられる(天文19年頃)。

慶長7年、宇都宮氏が豊臣秀吉によって改易されたのに伴って没落したが、江戸時代には徳川家の手で再興され当寺の境内面積は宇都宮城下屈指であり、東照大権現および八幡山南麓にある八幡神社の別当寺でもあったが、明治元年旧暦4月(1868年4月)の宇都宮戦争の戦火と明治24年(1891年)の大火により伽藍を焼失し、同年宝蔵寺に合併して廃寺となった。境内に鎮座した東照宮もこの時に遷座された。

当寺の寺域は江戸期には小川島町(こかわじまちょう)と呼ばれたが、当寺の廃寺とともに尾上町と改称され、現在の住所表示は本町となっている。当寺から出土した石棺は今も宝蔵寺に置かれている。現在の粉河寺跡は栃木県総合文化センター栃木県庁となっている。

延暦寺(えんりゃくじ、正字延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848㎡の比叡山全域を境内とする寺院比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京京都)の北にあったので南都興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の最澄767年 -  )により開かれた日本天台宗の本山寺院である。

住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。

最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室貴族の尊崇を得て大きな力を持った。

特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。