4「家康の側近で参画」

徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将戦国大名天下人安祥松平家9代当主で徳川家徳川将軍家御三家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。

戦国時代に終止符を打ち、朝廷より征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開く。三英傑のひとり。

家系三河国国人土豪松平氏。幼名は竹千代[1]。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元より偏諱を受けて元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが、今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。

勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し、豊臣政権では豊臣氏を称した形跡もあるが、天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。

幼少期を織田氏ついで今川氏の下で人質として過ごす。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでの今川義元の討死を機に今川氏から独立して織田信長と同盟を結び、三河国遠江国に版図を広げる。

信長が天正10年(1582年)に本能寺の変において死亡すると天正壬午の乱を制して甲斐国信濃国を手中に収める。

信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉小牧・長久手の戦いで対峙するが[1]、後に秀吉に臣従。小田原征伐後は後北条氏の旧領関東への転封を命ぜられ豊臣政権下で最大の領地を得る。

秀吉晩年には五大老に列せられ大老筆頭となる。

秀吉没後の慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いにおいて西軍に勝利。慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され武蔵国江戸幕府を開く。慶長20年(1615年)に豊臣氏を滅亡させ、日本全国を支配する体制を確立。15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代安土桃山時代)が終結。

家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は後に幕藩体制と称され264年間続く江戸時代を画した。

死後は日光東照宮に祀られ薬師如来本地とする東照大権現(とうしょうだいごんげん)として神格化され、「神君」(しんくん)、「東照宮」(とうしょうぐう)、「権現様」(ごんげんさま)とも呼ばれて信仰される。また、江戸幕府の祖として「神祖」、「烈祖」などとも称された。

幼少期から初陣

三河国土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠嫡男として天文11年12月26日(1543年1月31日)寅の刻(午前4時頃)に岡崎城 にて誕生。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。

3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟したので織田氏と敵対する駿河国今川氏に庇護されている広忠は於大を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる。

天文16年(1547年)8月2日、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国織田信秀へ送られた。だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田加藤順盛の屋敷に留め置かれた。

このとき織田信長と知り合ったという伝説があるが、史料にはない。また、近年の研究では、天文16年9月に岡崎城が織田氏によって攻略されたとする文書(「本成寺文書」『古証文』)の存在が指摘され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上している。

2年後に広忠が死去する。今川義元は織田信秀の庶長子織田信広との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代朝比奈泰能山田景隆など)により支配された。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。

天文24年(1555年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶る。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらい蔵人佐元康と改めている。

なお、松平元康(徳川家康)の今川氏との関係については吉良氏との関係を考慮する必要があるとする指摘もある。吉良氏は三河国幡豆郡を根拠とした足利氏御一家の一つで、今川氏の宗家筋であった。吉良氏は守護ではないものの、三河の国主に准じられて国内の国衆にも影響を与え、松平信忠は吉良義信、松平清康は吉良持清、松平広忠は吉良持広の偏諱を得たと推定されている。

今川義元は吉良氏に代わって安祥松平氏の次期当主に対して自らの偏諱を与えるとともに自らの一門に組み込むことによって吉良氏の三河国主としての地位を間接的に否定するとともに、今川氏の三河支配の安定化を実質上の三河最大の勢力である松平氏を介して図ったと考えられる。

当時、三河国では国衆の間で大規模な反乱が起きており(三河忿劇)、永禄元年(1558年)2月5日には今川氏から織田氏に通じた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻めた。これが初陣であり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた。

この戦功により、義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付し、腰刀を贈った。永禄2年(1559年)に駿府の元康は7か条から定書を岡崎にいる家臣団との間で交わしている。

これは、将来的に今川氏直臣の岡崎城主となるであろう元康と今川氏による間接統治下で希薄化した家臣団との間の主従関係を再確認する性格を持っていた。