しかし、永正8年8月14日(1511年9月6日)、義尹・高国・義興との決戦(船岡山合戦)直前に水茎岡山城で病死した。享年32(満30歳没)。

義澄の死から9日後の8月23日に船岡山合戦が勃発、細川澄元・三好之長・赤松義村らが敗れて義尹の将軍職が確定した。両陣営はその後和睦、義澄の2人の息子義晴義維はそれぞれ赤松義村、細川之持(澄元の兄)に引き取られた。

 

果ては姿を変えて生き残った明智光秀であるという説まである。

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名

出自、生年、出身地、青年期

清和源氏の土岐氏支流である明智氏に生まれる。父は江戸時代の諸系図などでは明智光綱明智光国明智光隆、明智頼明など諸説がある。また、父親の名前も伝わらない低い身分の土岐支流とも言われている。

生年

生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳である。ただし、後世の史料によるものとして、『明智軍記』などによる享禄元年(1528年)説、および『当代記』による永正13年(1516年)説の2説がある。

また、橋場日月は『兼見卿記』にある光秀の妹・妻木についての記述から、光秀の生年は大幅に遅い天文9年(1540年)以降と推定している(この場合、天文3年(1534年)生の織田信長より年下となる)。

生誕地、幼少期の土地

生地は岐阜県可児市広見・瀬田(旧・明智荘)の明智城とも言われる。少なくとも、美濃国(岐阜県南部)あたりで生まれたことは事実であるとみられている。このほかに近江国出生説もある。

井上優(滋賀県教育委員会文化財保護課主幹)は、江戸時代前期に刊行された『淡海温故録』の記述から、光秀の祖先が土岐氏に背いて六角氏を頼り、近江国犬上郡で生まれた可能性を指摘。同郡の多賀町佐目(さめ)には「十兵衛屋敷跡」(十兵衛は光秀の異名)と呼ばれてきた場所がある。

岐阜県瑞浪市説や、後述する同県大垣市上石津町説を含めて、出生地とされる地域は6ヵ所ある。

青年期

青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃国の守護・土義氏の一族で、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。

その後、光秀は越前国朝倉義景を頼り10年間仕えたとも言われる。越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日(1573年9月18日)付け光秀書状がある。

『明智軍記』や『細川家記』(正式には『綿考輯録』)には、義景が光秀に五百貫の土地を与えた、とある。明智の本流とされている土岐氏は美濃の出自であるが、尾張・越前は斯波氏が守護のため、両方に同姓の武士が住んでおり、縁故者がいた可能性はかなり高い。

朝倉側の史料に特に名前がでてこないところをみると、誰か親戚縁者の"預かりの立場"ないし食客だったと考えられる。いずれにしても、貫高が記録されてないていないため、朝倉家中では役職などはなかったと考えるのが妥当ということになる。

しかし、明智憲三郎はこのころの光秀の動向について自身の著書で、「細川藤孝の中間(部下)であり、幕臣だったのだ」としている。また、義景に仕えていなかったと断言できないものの、このころ既に幕府側の人間になっており、義昭が越前に向かう時に随伴し、義景とは義昭が越前に滞在した際に懇意になって家臣になったとする見方もある。

光秀の躍進

2016年時点で判明している限りでは、「米田文書」(個人蔵)に含まれる『針薬方』が光秀の史料上の初見である。これは2014年に熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能の、熊本市にある子孫の自宅で発見された医学書で、光秀自身が「高嶋田中籠城之時(高嶋田中城に籠城)」に語った内容を含んでおり、永禄9年10月20日(1566年12月1日)に米田貞能(米田求政)によって作成された写本である。

その後の調査の結果、明智光秀が若き日に語った医学的知識を、人づてに聞いた米田によりまとめられたものだと推測されており、出産刀傷の対処法など、当時としては高度な医学的知識に関する記述などが見られ、この古文書を一般公開した熊本県立美術館は、光秀が信長に仕える前は医者として生計を立てていた可能性があることを推測させる貴重な資料だとしている。

確定はできないものの、光秀の「高嶋田中籠城之時」は、永禄8年5月9日(1565年6月7日)に室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺された(永禄の政変)直後であると考えられるが、前述の朝倉義景仕官時代と重なる恐れがある。田中城は現在の滋賀県高島市安曇川町にあった湖西から越前方面へ向かう交通の要衝で、かねてからここを拠点に活動していたと見れば、後の元亀2年(1571年)に滋賀郡に領地を与えられるのも理解しやすくなる。

足利義昭との関係

その後、義輝(13代将軍)の弟・義昭が姉婿である若狭国守護・武田義統の下に逃れた。

その直後から義昭は織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、細川藤孝が使者に立ち信長は了承したが、当時は美濃国平定前であった。義昭側は永禄9年(1566年)4月に織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたが、信長がこれを破る形で同年8月29日(1566年9月12日)に出兵したことで流れた。

義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。しかし義昭が上洛を期待しても義景は動かない。

光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧め、そこで義昭は永禄11年6月23日(1568年7月17日。『細川家記』)、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した。