今月中に兄弟衆を派遣する

豊臣家への出仕を拒否する場合督姫を離別させる

8月に氏政の弟・北条氏規が名代として上洛したことで、北条-豊臣間の関係は一時的にではあるが安定する。武州文書によると、この頃、氏政は実質的にも隠居をすると宣言している。

天正17年(1589年)2月、評定衆である板部岡江雪斎が上洛し、沼田問題の解決を秀吉に要請した。秀吉は沼田領の3分の2を北条側に還付する沼田裁定をおこない、6月には12月に氏政が上洛する旨の一札を受け取り、沼田領は7月に北条方に引き渡された。

しかし上洛について、氏政は新たに天正18年(1590年)の春か夏頃の上洛を申し入れたが、それを秀吉が拒否したことにより、再び関係が悪化し始める。こうした状況の中の10月、氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が起きた。秀吉は家康、景勝らを上洛させ、諸大名に対して天正18年(1590年)春の北条氏追討の出陣用意を促した。

また、秀吉は津田盛月富田一白を上使として北条氏に派遣し、名胡桃事件の首謀者を処罰して即刻上洛するよう要求している。

これに対して氏直は、氏政抑留か国替えの惑説があるため上洛できないことと、家康が臣従した際に朝日姫と婚姻し大政所を人質とした上で上洛する厚遇を受けたことに対して、名胡桃事件における北条氏に対する態度との差を挙げ、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請した。

また名胡桃城奪取事件について、氏政や氏直の命令があったわけではなく、真田方の名胡桃城主が北条方に寝返ったことによるもので、既に名胡桃城は真田方に返還したと弁明している。

これが真に猪俣の独断であるならば、氏直・氏政の監督不行き届きが招いた結果であり、穏健派の氏規と中間派の氏直、主戦派の氏政・氏照・氏邦の対立が表面化したと言える。

しかし現存している各種書状において、沼田城受領後の氏政は自らの上洛時期が当初の12月から翌春か夏にずれたものの、上洛に積極的であり、氏政・氏直が再三にわたり名胡桃城を北条が奪取したわけでないと述べていることを考慮すると、名胡桃城奪取と言われる真の状況は今をもっても不明といわざるを得ない。

上洛の頓挫については、もし氏政が上洛して臣従した場合、秀吉は当然のこと、徳川家康や宿敵上杉景勝よりも風下に置かれることとなり、それに氏政が屈辱感を感じていたのではないかという見解がある。

『駿河土産』によれば、北条側は、同盟を結んでいる徳川より自分達の方が格は上だと認識している節があった。

また、北条氏への敵対意識が強い、上杉景勝や佐竹義重、北関東の諸豪族が早くから秀吉と接近していたため、秀吉の方も北条に対して非協調的、冷淡であったと指摘される。

未だに上洛を引き延ばす氏政の姿勢に業を煮やした秀吉は、氏政の上洛・出仕の拒否を豊臣家への従属拒否であるとみなし、12月23日、諸大名に正式に追討の陣触れを発した。これに先立って駿豆国境間が手切れに及んだことを知った氏政・氏直は、17日には北条領国内の家臣・他国衆に対して小田原への1月15日参陣を命じて迎撃の態勢を整えるに至った。

そして天正18年3月から、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎え撃った。当初は碓井峠を越えてきた真田昌幸・依田信蕃に対して勝利し、駿豆国境方面でも布陣する豊臣方諸将に威力偵察するなど戦意は旺盛であったが、秀吉の沼津着陣後には、緒戦で山中城が落城。4月から約3ヶ月に渡って小田原城に籠城する。その後、領国内の下田城松井田城玉縄城岩槻城鉢形城八王子城津久井城等の諸城が次々と落城。22万を数える豊臣軍の前には衆寡敵せず、

武蔵・相模・伊豆のみを領地とする。

氏直に上洛をさせる。

という条件で、北条氏は降伏した。

 

15「小田原征伐で滅亡」

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉後北条氏征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。

小田原合戦小田原攻め小田原の役北条征伐小田原の戦い小田原の陣小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。

北条氏康から氏政の時代へ

戦国時代に新興大名として台頭した北条氏康武蔵国進出を志向して河越夜戦で、上杉憲政足利晴氏などを排除し、甲斐武田信玄駿河今川義元との甲相駿三国同盟を背景に関東進出を本格化させると関東管領職を継承した越後の上杉謙信と対峙し、特に上杉氏の関東出兵には同じく信濃侵攻において上杉氏と対峙する武田氏との甲相同盟により連携して対抗した。

戦国後期には織田・徳川勢力と対峙する信玄がそれまでの北進策を転換し駿河の今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行ったため後北条氏は甲斐との同盟を破棄し、謙信と越相同盟を結び武田氏を挟撃するが、やがて甲相同盟を回復すると再び関東平定を進めていく。

信玄が西上作戦の途上に急死した後、越後では謙信の死によって氏政の庶弟であり謙信の養子となっていた上杉景虎と、同じく養子で謙信の甥の上杉景勝の間で御館の乱が勃発した。武田勝頼は氏政の要請により北信濃まで出兵し両者の調停を試みるが、勝頼が撤兵した後に和睦は崩れ、景勝が乱を制したことにより武田家との同盟は手切となった。

なお、勝頼と景勝は甲越同盟を結び天正8年(1580年)、北条氏は武田と敵対関係に転じたことを受け、氏照が同盟を結んでいた家康の上位者である信長に領国を進上し、織田氏への服属を示した。

氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居したあとも、北条氏照北条氏邦など有力一門に対して宗家としての影響力を及ぼし実質的当主として君臨していた。