甲州征伐と前後して、織田氏は御館の乱の混乱が続く上杉氏の攻略も進めていた。新発田重家が織田と通じて造反し、柴田勝家が越中まで侵攻。3月11日からは魚津城の攻囲も始まり(魚津城の戦い)、信濃が織田領になった後は南から森長可の侵攻も計画されていた。5月末には、本拠・春日山城に森の軍勢が迫りつつあって上杉景勝は魚津城に後詰することも適わなくなる。そして6月3日、魚津城が落ちたことで景勝の進退は窮まっていた。

上野・信濃の前史

上野国信濃国は、歴史的に越後の上杉氏、関東の後北条氏、甲斐の武田氏がその所領を巡って争ってきた。

上野は、元は関東管領山内上杉家の所領であったが、天文15年(1546年)の河越夜戦を経て天文21年(1552年)に上杉憲政が上野を脱出、北条氏康の領地となる。

その後、憲政は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に関東管領を譲り、謙信は関東管領としてたびたび関東方面へ侵攻するようになる。

上野(特に交通路であった沼田)は越後と関東を結ぶ重要地であり、これを巡って謙信と氏康・氏政父子は激しく争った。

越相同盟によって一時氏政が謙信の上野領有を承認したこともあったが、基本的に謙信の死まで上野を巡る両者の争いは続いた。武田信玄もまた上野西部にたびたび侵攻しており、永禄6年(1563年)頃に真田幸隆岩櫃城を攻略して吾妻郡を治め、永禄9年(1566年)には箕輪城を攻略して箕輪城以西を領国化した。

謙信の死後に上杉家で御館の乱が起きると、天正7年(1579年)に謙信の甥・景勝は信玄の子・武田勝頼と同盟を結び(甲越同盟)、同時に甲相同盟が破棄され、上野は武田と北条による争いの場として移り変わる。また、景勝に上野侵攻を承認された勝頼は、幸隆の子で家臣の真田昌幸に命令して沼田攻略を開始し、北条方であった沼田城を攻略させ、上野北部2郡(吾妻郡・利根郡)の運営を昌幸に任せた。甲州征伐後、上野全域は滝川一益の所領となるも、昌幸は滝川の下につくことでその勢力範囲を維持した。

信濃も関東管領である山内上杉家の力が弱まると武田氏が手を伸ばし始める。甲斐統一を果たした武田信虎は、甲斐の西に位置する信州諏訪郡を治める諏訪氏と同盟を結び、北に位置する佐久郡に攻め入った。

当時の信濃北部の有力者であった村上義清とも手を結び、海野氏を駆逐するなど佐久への地歩を固める。まもなく信虎は追放され、後を継いだ信玄は積極的に信濃に侵攻するようになり、従来の佐久郡・小県郡の他、同盟関係にあった諏訪郡にも侵攻し、北部を除いて信濃を平定する。

信濃を追いだされた村上義清や北部の豪族など信濃の大名は、上野と同様に謙信を頼り、謙信はこれを大義名分として信濃へ南下する。

両者は北部4郡の入り口にあたり、4郡を支配するために重要な川中島海津城で何度も対峙した(川中島の戦い)。このような経緯によって国人衆や土豪への影響力など、信濃北部に関しては上杉氏、北部を除く信濃全域は武田氏が強く持っていた。

これら上野・信濃は、先述のように甲州征伐によってそのほぼ全域が織田氏の物となった。

しかし、3ヶ月後の本能寺の変によって空白化する。織田氏による統治期間が極めて短く、地元の有力者を掌握しきれていなかったことが、天正壬午の乱及び以後の出来事に大きな影響を与えていくことになる。

序盤

詳細は「本能寺の変」を参照

天正10年(1582年)6月2日、信長は京都の本能寺で家臣の明智光秀によって討たれた(本能寺の変)。

家康の転進

本能寺の変の発生した6月2日、徳川家康穴山信君(梅雪)は大阪府堺市)に滞在し信長と合流するためともに京都へ向かっていたが、途中で徳川家臣の本多忠勝は京都商人・茶屋四郎次郎から本能寺の変の発生を知る。家康は飯盛山下において事態を知ると、本拠の三河国へ戻るべく伊賀越えを敢行し、無事に畿内を脱出する[6]。一方、途中で家康と別れた穴山は、宇治田原(京都府宇治田原町)で土民に殺害された。

家康は6月4日に三河岡崎城愛知県岡崎市)に帰還すると、明智討伐の軍を起こすと同時に、無主状態となった甲斐・信濃の計略を開始する。

当代記』によれば、家康は6月10頃に甲斐の河尻秀隆に使者として家臣の本多信俊(百助)を派遣し、河尻に協力の要請を行った。

また、家康は6日には徳川家臣となっていた武田遺臣の駿河衆・岡部正綱に書状を送り、穴山の本拠である甲斐河内領の下山館身延町下山)における城普請を命じ、富士川駿州往還(河内路)沿いに菅沼城(身延町寺沢)が築城される。また、家康は同じく武田遺臣で信濃佐久郡の国衆・依田信蕃を佐久郡へ向かわせる。

依田は武田滅亡時に駿河田中城静岡県藤枝市)において徳川氏に抗戦しており、武田滅亡後に信濃佐久郡春日城長野県佐久市)へ帰還していたが、織田氏による処刑を恐れて家康に庇護され、遠江に潜伏していたという。

『甲斐国志』『武徳編年集成』によれば、甲斐国一国と信濃諏訪郡を統治した河尻秀隆は武田時代の躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)ではなく、岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠としたという。『三河物語』によれば、河尻は6月14日に岩窪館において本多信俊を殺害している。信俊は河尻と知縁があったが、『武徳編年集成』によれば河尻は信俊に不審感を抱き、家康が一揆を扇動し甲斐を簒奪する意図があったと疑い信俊を殺害したという。

翌15日に甲斐国人衆が一揆を起こすと河尻は脱出を図るが、18日に一揆勢に殺害された。

一方、家康から甲斐へ派遣された岡部正綱は穴山氏の居館のある下山館(身延町下山)に入った。また、依田信蕃は武田遺臣900人弱を集めて20日には再び小諸城へと入った。

家康は西へ進軍していたが、6月14日に山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に討たれると、家康は6月15日に鳴海(名古屋市緑区)において報告を受ける。家康は酒井忠次を津島に前進させ情報を確認し、21日に軍を返して浜松へと戻った。

さらに岡部は6月12日から6月23日にかけて、曽根昌世と連署で甲斐衆に知行安堵状を発給している。