11「甲州征伐」

天正6年(1578年)に謙信が死去すると、その後継者をめぐって謙信の甥・上杉景勝と氏政の弟で謙信の養子・上杉景虎の間で後継者争いである御館の乱がおこった。氏政はこの時、下野国において佐竹氏・宇都宮氏と対陣中であったため、5月に景虎援助のために氏照、氏邦らを越後国に派遣した。

8月下旬には氏政自身も景虎援助のため、上野国の厩橋城まで出陣するが、すぐに小田原へ引き返している。

また、これと同時に同盟者で義弟(妹・桂林院殿の夫)の武田勝頼にも援軍を依頼した。

勝頼は景虎支援のため北信濃に出兵するが、景勝は北信の上杉領や上野沼田の割譲を条件に勝頼と和睦し(甲越同盟)、勝頼は景虎・景勝間を調停し和睦の成立に至るが、同年8月の勝頼撤兵中に和睦は破綻する。

氏照・氏邦は秋に本格的に越後入りを図るも、坂戸城での頑強な抵抗にあって冬の到来による積雪で、無念の撤退を強いられる。翌天正7年(1579年)に景勝が乱を制する形で景虎は自害した(その後、勝頼の妹が景勝に嫁いだ)。

景虎の敗死により氏政は甲相同盟を破棄し、徳川家康と同盟を結び駿河の武田領国を挟撃する。天正8年(1580年)に勝頼を攻めて重須の合戦が起きたが、勝負はつかなかった。上野国では勝頼の攻勢が続き、上野下野国衆も武田方に転じたため、劣勢に陥っている。

このため、同年3月10日には石山本願寺を降伏させて勢いづく織田信長に臣従を申し出ている。 

8月19日に氏直に家督を譲って隠居するが、これは在陣中の異例のもので、父に倣い北条家の政治・軍事の実権は掌握した。

勢力拡大

天正10年(1582年)2月、織田信長の嫡子の織田信忠を総大将、織田四天王の1人である滝川一益を軍監とした軍勢が甲州征伐に乗り出す。駿豆国境間の情報が途絶していたため当初情報の少なかった氏政は氏邦に上野方面から情報収集させた。

甲州征伐(こうしゅうせいばつ)は、1582年天正10年)、織田信長とその同盟者の徳川家康北条氏政長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河信濃甲斐上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。武田征伐とも言われる。

戦いの序章

甲斐武田氏武田信玄後期に徳川領の遠江三河への本格的侵攻である西上作戦を実行し、それまで同盟関係にあった織田信長は徳川氏の同盟者であったため武田氏と織田氏は手切となり、敵対関係に入った。西上作戦は元亀4年(1573年)に信玄の急死により撤収され、勝頼期には東海方面で徳川家康が反攻を強めた。

天正3年(1575年)5月には三河の長篠城を巡って武田勝頼軍と織田・徳川連合軍との間で長篠の戦いが発生し、武田氏は主要家臣を多く失う大敗を喫し、武田家領国は動揺した。

長篠合戦の後、武田氏の外戚である木曾義昌(武田信玄の娘で勝頼の妹・真理姫の夫)は武田勝頼より秋山虎繁(信友)が守る美濃岩村城の支援を命じられたが、財政的な理由で勝頼に反抗した。虎繁は織田軍に敗れ処刑され美濃方面の橋頭堡を失い、逆に美濃からの織田氏の脅威にさらされることになる。

長篠合戦後に勝頼は外交関係の再構築を試み、北条氏政とは妹の桂林院殿との婚姻によって甲相同盟を固めた。

しかし御館の乱を契機に後北条氏を敵に回してしまう。上杉景勝には妹を娶らせて甲越同盟を結ぶも、上杉家は内乱後の深刻な後遺症により上杉領国外への影響力を失っていた。

対北条には特に上野戦線では有利に進むも、織田・徳川・北条と三方を敵に囲まれた中で過度の出兵とそれに伴う支出で領国は疲弊を深めていく。

織田氏は畿内や北陸における一向宗との戦い(石山合戦)や西の毛利氏との戦いに忙殺されていたため、しばらく軍を東へ向けることはなかったものの、信長の同盟者である三河の徳川家康は長篠の戦い以降武田氏に対し攻勢を強め、勝頼はたびたび出兵を余儀なくされた。

そうした窮状の中で信長とは人質として武田家に寄寓していた織田勝長を返還し、また常陸国佐竹氏との同盟(甲佐同盟)を通じて和睦を試みるが(甲江和与)、信長との和睦は成立せず、織田・徳川連合軍の武田領国への本格的侵攻が行われることになる。殊に天正9年の高天神城の落城に際し後詰を送れなかった事は、武田氏の信望を致命的に失墜させた。

織田・徳川家などに対する相次ぐ出兵や新府城築城にかかった費用を穴埋めすべく、尋常ならざる割合の年貢賦役を課しており、人心が徐々にではあるが勝頼から離れつつあった。

木曾義昌もその1人であるが、勝頼の側も秋山支援に動かなかったため木曾に不信感を抱いており、両者の関係は急速に冷却化しつつあった。

天正10年(1582年)2月1日、新府城韮崎市)築城のため更に賦役が増大していたことに不満を募らせた木曾はついに勝頼を裏切り、信長の嫡男信忠に弟の上松義豊を人質として差し出し、織田氏に寝返った。

勝頼は、真理姫から木曾の謀反を知らされるとこれに激怒し、従弟の武田信豊を先手とする木曾征伐の軍勢5,000余を先発として木曽谷へ差し向け、さらに木曾義昌の生母と側室と子供を磔にして処刑。そして勝頼自身も軍勢1万を率いて出陣した。

信長は2月3日に武田勝頼による木曾一族の殺害を知ると勝頼討伐を決定、動員令を発した。信長・信忠父子は伊那から進軍。信長の家臣金森長近飛騨方面から、同盟者の徳川家康が駿河方面から、進軍することに決定した。北条氏政へは甲州征伐の詳細は知らされなかった。情報収集の末、氏政は駿豆方面から侵攻を開始した。