その後も信玄が伊豆・駿河方面に進出するとこれに対抗するが、蒲原城深沢城等の駿河諸城が陥落し、後見役であった父が病気がちになり戦線を後退。元亀元年(1570年)には駿河国の北条方支配地域は興国寺城及び駿東南部一帯だけとなり、事実上駿河国は信玄によって併合された。

元亀2年(1571年10月に父が病没すると、氏政は12月に信玄との同盟を復活(甲相同盟)、同時に謙信との越相同盟を破棄した。

 

9「西上作戦」

この同盟は条件の調整不足等より、結果的に対武田対策として十分な成果を得られていない旨の不満[3]があった。元々両氏の戦略観の隔たりがあった上、謙信も越中国の平定の方に力を注くようになっていた。

元亀3年(1572年)の信玄の三河・織田領国への侵攻(西上作戦の際には、諸足軽衆の大藤秀信(初代政信)や伊豆衆筆頭で怪力の持ち主とされる清水太郎左衛門など2,000余を援軍として武田軍に参加させ、三方ヶ原の戦いでは織田・徳川連合軍に勝利している。ただし、この戦いで大藤秀信が戦死している。

西上作戦(せいじょうさくせん)とは、元亀3年(1572年)9月から元亀4年(1573年)4月にかけて行なわれた甲斐武田氏による遠征。

戦国期の甲斐・尾張関係と畿内情勢[編集]

武田信玄は戦国期に天文10年代から信濃侵攻を行い、駿河の今川氏・相模の北条氏と三国同盟を結び越後国上杉謙信と対決し北信一帯まで領国を拡大した。一方で尾張国の織田信長は永禄年間までには尾張を統一し、永禄3年(1560年)には桶狭間の戦いにおいて駿河の今川義元を打ち取り、美濃への侵攻を行っていた。

武田氏では川中島の戦いを契機に上杉氏との抗争が収束し、駿河では当主交代による領国の動揺で三河の松平元康(徳川家康)が独立し、独自勢力として台頭した。

こうした情勢のなかで武田・織田両氏は領国が接しはじめた永禄年間から外交関係が見られ、当初は武田氏では今川氏の当敵である織田氏に対して敵対を示しているが美濃情勢への積極的介入は行わず中立的立場をとっている。

今川氏の当主交代後も武田と今川は同盟関係を継続しているが徐々に関係は悪化し、永禄8年(1565年)には今川当主氏真妹を室とする武田氏の嫡男義信が謀反により廃嫡される事件が発生している(義信事件)。義信の廃嫡により武田氏の世子は信玄庶子の諏訪勝頼(武田勝頼)となるが、この前後には信長の養女(信長の妹婿・遠山友勝の娘)が勝頼正室に迎えられており、武田・織田間では関係改善が図られている。

永禄10年(1567年)に松姫(信松尼・信玄の6女)と織田信忠(信長の嫡男)を婚約させることで同盟を維持していた。

一方、武田・織田両氏と京都権門の関係では、武田氏では越後上杉氏との抗争において将軍義輝からの紛争調停を受けており、永禄年間には本願寺との関係も強めている。

一方、織田氏では永禄11年(1568年)9月26日に信長が将軍足利義昭を奉じて上洛を果たし両者は連携しているが、永禄13年(1570年)1月に信長は義昭の将軍権力を制限するため、殿中御掟を義昭に突きつけて強制的に承認させた。

これにより信長に不満を抱いた義昭は、信玄をはじめ本願寺顕如朝倉義景三好三人衆らに信長討伐を命じる御内書を発しているが、信玄は織田氏との関係上これには応じていない。

駿河侵攻と甲斐・尾張関係の変化

永禄11年(1568年)に武田と今川氏は手切となり、武田氏は三河の徳川家康と共同し駿河今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。

駿河侵攻は武田と相模後北条氏との甲相同盟も破綻させ、後北条氏では越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国に圧力を加え、さらに武田は徳川氏とも今川領国割譲をめぐり対立関係となった。

武田氏の駿河侵攻に際して、信長は同盟関係にある家康に武田との協定再考をもちかけているが家康は独自勢力として動いており、信玄は信長を通じて将軍足利義昭を介した越後上杉氏との和睦(甲越和与)を行っている。

元亀元年(1570年)4月、信長は朝倉義景の討伐のため越前遠征を行うも妹婿・浅井長政の裏切りにより大敗する(金ヶ崎の戦い)。

これを皮切りに、各地の反信長勢力が決起し第一次信長包囲網が形成される。この後、姉川の戦い野田城・福島城の戦いが行われるも、まだ信玄に動きは見られなかった。

しかし、同年12月、信玄の義理の弟にあたり、信長包囲網の一角も担っていた顕如より援助を要請する書状が送られている(また翌年5月には大和松永久秀からも同様の書状が送られている)。

元亀2年(1571年)10月の北条氏康の死によって甲相同盟が再締結されたため、武田氏は駿河を確保し、三河徳川領国への侵攻も可能となった[注釈 1]

元亀3年(1572年)8月には、上杉謙信を牽制するため、武田信玄は顕如に要請して越中一向一揆を起こさせた(越中一向一揆)。

このときの越中一向一揆は大規模なもので、勝興寺顕栄瑞泉寺顕秀ら本願寺坊官のほかに椎名康胤ら越中の大名も参加して謙信に敵対した。このため、謙信は一揆の鎮圧にかかりきりとなり、武田領に侵攻するような余裕は無くなった(さらに西上作戦を行った時期は雪が国境を塞いでしまう)。

信玄は同年10月には浅井・朝倉両氏に信長への牽制を要請し、三河徳川領国への侵攻を開始している。

戦役

出兵・序盤

元亀元年(1570年)12月28日に秋山虎繁が東美濃の遠山氏の領地を通って、徳川家康の本拠地の三河へ攻め込もうとした。そのため遠山氏と徳川氏の連合軍との間で上村合戦が勃発した。

この時、延友佐渡守は岩村城が武田方になったにも関わらず忠節を尽くしたことを信長に賞され、美濃国日吉郷・釜戸本郷を与えられた。

元亀3年(1572年)9月29日、武田信玄は重臣の山県昌景秋山虎繁(信友)に3000の兵力を預けて信長の同盟者である徳川家康の領国である三河に侵攻させた。そして10月3日、信玄も2万2000の兵力を率いて甲府から出陣し、10月10日には青崩峠または兵越峠)から家康の所領・遠江に侵攻を開始した。

三河に侵攻した山県昌景は新たに指揮下に組み込んだ北三河の国人領主で、“山家三方衆”とも呼ばれる田峯城主・菅沼定忠作手城主・奥平貞勝長篠城主・菅沼正貞に道案内(実際には貞勝の代将が奥平貞能、正貞の代将は菅沼満直)をさせて浜松方面へ進軍し、長篠城の南東に位置する鈴木重時柿本城を攻撃した。