元々、北条氏躍進以前の関東では、関東公方やその執事たる管領家ですら権益争いと恩讐の中で分裂し、その元で関東諸将は合い争っていたという事情をかかえていた。

常に反北条の姿勢を崩さなかった佐竹氏・里見氏・太田氏等以外の関東諸将の多くは、その後も謙信と北条氏の間で揺れ動きながらも、結局は関東で在地統治している北条氏に帰属するか、両者の攻防の中で衰退していった。

小田原城

関越大連合軍の攻勢を篭城で乗り切った北条氏はこの後、小田原城の普請を絶やすことなく縄張りを広げ、武田信玄に攻め込まれた際も小田原城で篭城してやり過ごす。

後の豊臣秀吉による小田原征伐では、田畑、城下町までをも囲い込む周囲9キロに及ぶ惣構えとなり、多くの名将が率いる22万の兵力を相手に3ヶ月の篭城戦に耐え、敵方に力攻めを断念させた。しかし、支城がことごとく陥落し、城内では重臣の内応が露見。先に降伏した一門や反戦派の説得もあり、開城した。

俗説では、かつての籠城策の成功によって生じた過信が豊臣連合軍との交戦を決意させ、北条氏に滅亡をもたらしたとも言われる。

しかし、実際は沼田問題が一応の解決をみた時点で氏政の上洛(豊臣政権への参画)は決定していた。籠城策が決定したのは、名胡桃城事件によって秀吉から宣戦布告され、交戦が避けられない状況になってからである。

松平元康

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後、本拠地である三河国岡崎城に帰還していた今川氏傘下の松平元康(後の徳川家康)が、翌永禄4年(1561年)4月に今川方の牛久保城を攻撃して今川氏に叛旗を翻して自立を果たし、更に織田信長と清洲同盟を結んだ。この三河国の動きも謙信の小田原城攻撃と関連しているという見解が出されている。

柴裕之は松平元康が今川氏から自立するにあたって武田・北条両氏が今川氏真を支援することを警戒していたが、謙信の侵攻によって武田・北条両軍が上杉軍と対峙したことで彼らの援軍が三河に送られる危惧が解消されたことが自立を促す一因になったとしている。

一方、丸島和洋は桶狭間の戦い直後の松平元康はあくまでも今川氏真の命に従って岡崎城にて織田軍の西三河侵攻に対峙していたが、今川氏真が三河への援軍よりも同盟国である武田・北条両氏への支援を重視して小田原城への援軍を送ったことで不満を抱き、無援のまま織田氏と戦うよりも織田氏と結んで今川氏から自立することで領国(西三河)の維持を図ろうとしたとしている。

なお、その後今川氏真は北条・武田両氏に対して使者を派遣して三河奪還のための援軍を要請しており、それを受けて信玄も南信濃の国衆である下条氏に三河調略を進めるように指示を出したとされているが、永禄6年(1563年遠江国遠州忿劇と呼ばれる大規模な国衆反乱が起きると今川氏真の統治能力が疑問視され、信玄は三国同盟破棄と今川領侵攻を検討するようになっていく。

 

北条氏は窮地に陥ったが、盟友・武田信玄の支援もあり、氏政は父主導のもとで籠城戦で対抗し、上杉軍を撃退する。越後国に撤退した謙信が次川中島の戦いで信玄と戦って甚大な被害を受けると、信玄と呼応して北関東方面に侵攻。

第四次合戦

『甲陽軍鑑』によれば、永禄3年(1560年)11月には武田氏一族の「かつぬま五郎殿」が上杉謙信の調略に応じて謀反を起こし、成敗されたとする逸話を記している。勝沼氏は武田信虎の弟である勝沼信友がおり、信友は天文4年(1535年)に死去しているが、『甲陽軍鑑』では「かつぬま五郎殿」を信友の子息としているが、一方で天文8年頃には府中今井氏今井信甫が勝沼氏を継承して勝沼今井氏となっている。信甫の子息には信良がおり、謀反を起こした「かつぬま五郎殿」はこの信良を指すとする説がある。

川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。

一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、第四次合戦については前提となる外交情勢については確認されるが、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語のみである。

そのため、本節では『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。

しかしながら、『勝山記[注釈 2]や上杉氏の感状近衛前久宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書は残存しているほか、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることから、この年にこの地で激戦があったことは確かである。現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。

合戦の背景

天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。

永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は将軍足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。永禄3年(1560年)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。

永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた(小田原城の戦い)。

北条氏康は、同盟者の武田信玄(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、相模国鎌倉鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。

関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。

同年8月、政虎は越後国を発向し善光寺を経由して妻女山に布陣した。これに対する武田方は茶臼山(雨宮の渡し、塩崎城山布施城等諸説がある)に対陣する。