2「前田 利家の出自」(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名加賀藩前田氏の祖。豊臣政権五大老の一人。俗に加賀百万石の祖とも称されるが、前田家が百万石を超えるのは利長・利常ら利家の息子たちの世代からである。

尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主前田利春の四男。

前田 利春(まえだ としはる、? - 永禄3年7月13日1560年8月4日))は、戦国時代武将尾張国荒子城主。別名利昌(としまさ)。

蔵人、縫殿助。父は前田利隆とされるが、史料が乏しく実在したかどうかは疑問である。利春は事実上の加賀藩前田氏などの始祖。室は竹野氏の娘(長齢院)。子に前田利久前田利玄前田安勝前田利家佐脇良之前田秀継寺西九兵衛室。

尾張国で林秀貞与力として、織田氏に仕え、2千貫を知行して尾張荒子城(名古屋市中川区)の城主を務める。

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの後に死去。戒名は道機庵休岳居士。 跡を嫡男の利久が継いだ。墓所は石川県七尾市の長齢寺、肖像画も所蔵されている。

3「仕官・小姓時代」

天文7年12月25日1539年1月15日)、尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)において、その地を支配していた土豪荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれる。

幼名は犬千代。荒子前田家は利仁流藤原氏の一族とも菅原氏の一族ともいわれるが確かなものではない。当時の領地は2,000貫だった(利家記)。

生年に関しては、これまでは『松雲公御考記』などの前田家側の記録から天文7年12月(1539年1月)説が有力だったが、近年では、秀吉が没した時に利家が「耳塞ぎ餅」を行ったとする伝えをもとに秀吉と同年とする天文5年(1536年)を生年とする説やこれを訂正した天文6年(1537年)を生年とする説 が提示されている。

はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。

その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる。

信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人)を任じられる。

秀吉の死後、対立が顕在化する武断派文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。

はじめ前田氏は、織田家筆頭家老の林秀貞の与力であったが(『信長公記』『加賀藩史稿』)、天文20年(1551年)頃に織田信長に小姓として仕える。若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をしたかぶき者であった。

翌天文21年(1552年)に尾張下四郡を支配する織田大和守家(清洲織田氏)の清洲城主・織田信友と信長の間に起こった萱津の戦いで初陣し、首級ひとつを挙げる功を立てる(村井重頼覚書)。

萱津の戦い(かやづのたたかい)は、天文21年8月16日1552年9月4日)に尾張国萱津[注 1]で行われた戦いである。萱津合戦海津の戦いとも呼ばれる。

戦いの経緯

尾張下四郡を支配する守護代、清洲織田家(織田大和守家)の重臣で、清洲三奉行の一人織田信秀(織田信長の父)はその勢力を伸ばし、主家の清洲織田家とも対立と和睦を繰り返すほどになっていた。

しかし、信秀が死去(時期には諸説あり)して、子の信長が家督を継ぐと、信秀に従っていた鳴海城山口教継教吉父子が駿河今川義元に寝返り、天文21年4月17日1552年5月10日)には信長と教吉の間で赤塚の戦いが勃発した。

このころ清洲織田家の当主は織田信友だったが、その実権は又代の坂井大膳に握られていた。大膳は同輩の坂井甚介・河尻与一・織田三位と謀り、天文21年8月15日(1552年9月3日)、信長方の松葉城とその並びにある深田城を襲撃すると、松葉城主織田伊賀守と深田城主織田信次(信秀の弟で信長の叔父)を人質とした。

この報せを聞いた信長は、8月16日早朝に那古野城を出陣すると、稲庭地(稲葉地)[注 4]庄内川畔で、守山城から駆けつけて来た織田信光(信長の叔父で信次の兄)と合流。兵を松葉口・三本木口・清洲口に分け、自らは信光と一手になって庄内川を越し、海津(萱津)へと移動した。

辰の刻(午前8時ごろ)に戦端が切られ、数刻交戦の末に坂井甚介が討ち死にした。その首は、中条家忠柴田勝家が二人がかりで取ったという。その他、清洲方の50騎が討ち死にした。

松葉口では惣構えの中へ清洲方を追い入れ、真島の大門崎で辰の刻から午の刻(おおよそ午前8時から正午ごろ)まで交戦が行われて、数刻の矢戦に清洲方は負傷者多数でほぼ無人となって本城に退却した。

深田口では三本木の町に要害がなかったため即座に追い崩し、清洲方の侍は30余人が討ち死にした。

これにより、深田・松葉両城に信長方が押し寄せると、清洲方は降参して城を明け渡し、清洲へ一手になって退却した。信長は余勢を駆って清洲の田畑を薙ぎ払い、以後両者の敵対関係が続くことになった[1]

なお、この戦いが前田利家の初陣だという。

 

その後、元服して前田又左衞門利家と名乗った(又四郎、孫四郎とも)。

この頃、信長とは衆道(同性愛)の関係にあったと、加賀藩の資料『亜相公御夜話』に「鶴の汁の話(信長に若い頃は愛人であったことを武功の宴会で披露され皆に羨ましがられた時の逸話)」として残されている、と解釈されることが多い。

近年の研究では、この文章は単純に、不寝番として側近く仕えるほどに親しく接したことを誇っただけ、と見る説が立てられている。